アマミー&第3弾へ
公演ランチ
大劇の花組公演ランチの一つ。味は・・・普通でした。


昨日は晴れ女本領発揮で、相手先が素敵な方々で、とても良い取材ができました。

さて、本日午後から早退し、東京花組第3弾へ出発。
本日は、夜にアマミーこと天海祐希さん主演のミュージカル「テイクフライト」を東京フォーラムで観ます。
楽しみですわぁ。
ホントに、生アマミーはもう10年以上ぶりなんです。

できればおさちゃんの衣装を見に、台場のヴィーナスフォートにも行ってこようと野望を抱いています。

今回もPCを持参しないため、詳しいご報告は帰ってきてからになりますので、ご了承ください。


●ミニエッセー476「ヅカノート2007冬より3・第67回宝塚愛の翼大賞」

勝手に決めているものです。(敬称略)

第67回宝塚愛の翼大賞(2007.12.2付け)

<大賞>
春野寿美礼

<最優秀演技賞>
白羽ゆり

<演技賞>
霧矢大夢、彩愛ひかる、緒月遠麻、未来優希

<最優秀歌唱賞>
彩乃かなみ

<歌唱賞>
安蘭けい、瀬奈じゅん

<最優秀ダンス賞>
鈴懸三由岐

<ダンス賞>
桐生園加、水夏希

<最優秀特別賞>
立ともみ

<特別賞>
春野寿美礼、轟悠、青葉みちる、千はふり

<最優秀努力賞>
南海まり

<努力賞>
愛音羽麗、未涼亜希、灯奈美、沙央くらま

<最優秀スター賞>
綺華れい

<スター賞>
大空祐飛、明日海りお、凰稀かなめ、音月圭

<最優秀新人賞>
涼瀬みうと

<新人賞>
遥奈瞳、凰華れの

<最優秀男役賞>
彩吹真央

<男役賞>
嶺輝あやと、銀河亜未、香綾しずる、真飛聖、壮一帆、柊巴、望海風斗、夢乃聖夏、朝夏まなと

<最優秀娘役賞>
花純風香

<娘役賞>
宝生ルミ、大月さゆ、愛原実加、桜乃彩音、晴華みどり、涼花リサ、天勢いづる、桜一花、常磐みづの

(続く)
 
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【2007/11/30 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
東京第2弾報告③
雲
飛行機の窓から撮った雲。10月20日でした。

本日の夜、道南から戻って、もう明日は東京だもの・・・。どんだけぇ~。
しかし、東京より道南へ行くほうがちと遠い気がするよ・・・。

さて、25日は入り待ち&W観劇で、相当疲れを覚悟していました。確かに体は疲れましたが、それを帳消しにする幸せがありました。
昼は、会席でとても良い席をいただき、何度も何度もおさちゃんから視線をいただくという(思い込みでもさ・・・)幸運がうれしかったのと、おさちゃんが絶好調で楽しそうに舞台をやっていることに感動したこと、そして・・・あることを思い浮かべてしまって、急に悲しくなり、涙ポロポロこぼしながらの観劇になってしまいました。
もう、おさちゃんが幸せなら、自分はなんだっていいや。
しかし、芝居ではずいぶんおさちゃんと壮君が対立して、とうとう石鹸工場でモーリスの握手を拒否しちゃったもんね、ジョジョったら・・・。

そして、午後は組総見。私は2階席を自力でゲットし、総見席の方たちと同じ気持ちで観ました。やっぱりおさちゃんはショーで村と同じくウィンクサービスや「花組、花組」を大連呼。
最後まで楽しかった~。デュエットダンスのあと、春野氏、銀橋でなんか拾ったし・・・笑。
芝居もかなり2階を意識していたなぁ。
幕間には「たまごは暗号」のじゅんさまにお会いし、励ましをいただき、うれしかったです。

まとぶんの緩急自在の演技にはいつも感心します~。


●ミニエッセー475「“おひとりさま”万歳!2」
それでも、最近やっとである。喫茶店やレストランなどでも「女性一人」が多くなったと感じるようになったのは・・・。
もの思いにふける人、携帯メールに必死な人、仕事や勉強をしている人、本を読んでいる人・・・そういう女性を見ると、なんだかうれしくなる。
1人でそういう所に行くのが苦手と言う人は男女に限らずいるだろう。誰かと一緒、グループでなくては心細いという人、あるいは仲間がいるんだということを誇示したいおばさん連中(特に宝塚ファン)もいる。数の論理で、集団なら何に対しても強いと思っているようだ。
確かに1人では手持ち無沙汰になることもあるし、話す相手がいなくて寂しいと感じることもあるだろう。もちろん、仲間は大事であり、団体で行動するのが吉なこともある。
しかし、時には群れない勇気を持つこと、1人で凛と存在するのもかっこいいものである。
人はもちろん、1人では生きていけない動物だが、たまには1人になり、ぼっーとするのもいいし、いろいろと考えるのも悪くない。
私は今、主人やたくさんの家族、職場や趣味の仲間に恵まれている。しかし、人はどんな理由で突然一人ぼっちの生活をしなくてはならなくなるか、明日は分からないものである。
1人ということに慣れておくことも必要だと思っている。その半面では、集団に帰属すること、場の空気によって人に合わせる―順応しなければならないこともよく知っている。
女性は、おしゃべりが好きである。特に3人寄ればかしましい。私も女きょうだい3人で集まると、とにかくにぎやかになる。けれども、常に、周囲のことを気遣うことを忘れてはならない。迷惑になる、騒いではいけない場所では、おしゃべりは控える。
その当たり前の、最低限のマナーを守れない女性(特に中年の方)は多い。私が「おひとりさま」がいいと思うのは、そのことへの提言の意味もある。
常に群れてピーチクパーチクがやめられない人を、「おひとりさま」ができない、すなわち、人間個人として自立できていない女性と見てもいいのではないだろうか。
たぶん、非おひとりさまは、例えば、車同士こすってしまったとか、お店や公共施設、機関などでのちょっとしたトラブルでも、自分ひとりで対応、解決することができない人が多いことだろう。既婚者ならば、「夫に連絡しなければ・・・」が始まる確率が高いはずである。
私も中年と言われる年齢に差しかかっているが、生涯胸を張って「おひとりさま」ができる生き方をしたい。
自分に「個」の意識があると、他者の「個」も認められるようになる。人にはそれぞれの趣味・趣向、主義・主張、考え方、生き方、リズムがある。無理に自分の考えを押し付けてはならない。無理に誘ってはいけない。その心に、土足で踏み入ってはいけない。
互いを尊重し合い、必要な場面では意見に耳を傾け、うまく折り合いをつけていかなければならない。わがまま、自己中心に生きてはいけない。
「おひとりさま」の重要性は、そんなことにも通じるのではないかと、私は思っている。

【2007/11/29 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
東京第2弾報告②
紅葉
今年はこれしか職場の紅葉を撮らなかったです。(ゆっくり紅葉を観る時間もなし)

本日から1泊で道南に取材出張です。
まさに本日のミニエッセー通り、おひとりさまで、車で。
温泉に泊まるのが楽しみ。っていうか、体中痛いので助かったよ。(いつもながら、仕事よりそれかい)

24日は出発前夜の家での除雪や同じ方向での観劇などで首・肩が痛む中、頑張って入り待ちし昼、JCBカード貸切公演を1階S席後方で観劇。
蕁麻疹の薬を飲んでいたため、眠いのもあって、芝居はあまり集中できず。
しかし、なんとなく、生徒みんな早口だった。という印象が。
それに、おさちゃんはとても燃えていた。あついジョジョだった。笑。

午後は、美容整体で2時間、カイロプラティックやストーンマッサージをしてもらい、助かりました。体がボロボロのまま、午後観劇や出待ちはできんかったもん。

それから、張り切って出待ちに。
おさちゃんは大人会(私は入っていません)参加のため、化粧して出てきてくれて、しかも、ばっちり目が合ってしまい、もう・・・・・昇天でございました。


●ミニエッセー474「“おひとりさま”万歳!1」
数年前から耳にするようになった「おひとりさま」。調べたら、商標登録されている言葉だそうだ。
未婚でも既婚でも「個」を確立できている自立した大人の女性を意味しているそうで、いまや「おひとりさま」のパワーが、ヒット商品を生み出したり、新しいライフスタイルの広がりを生んだり、あらゆる市場を引っ張っているのは、うなずける。
この言葉を聞いた時、その詳しいことを知らないうちから、私は「これが定着するのは素晴らしい傾向だ。私にぴったり」と思っていた。
私にとっての「おひとりさま」の話をする前に、これを提唱し、著作を残したジャーナリストの岩下久美子さんの冥福を祈りたい。
岩下さんが、2001年に旅行先の海外で不慮の事故により亡くなられたことを知り、ショックを受けた。ご家族や関係者の悲しみはどんなに深かったことだろう。
美しい人だったから、トートに愛されたのだろうか。
岩下さんの遺志を継ぎ、ご主人や仲間たちが「おひとりさま向上委員会」という活動をされているが、私は早くから実践してきた1人であり、岩下さんの提唱を賛美したいということを申し上げたい。
申し訳ないが、著作は読んでいないので、今回は私が考える「おひとりさま」―つまり、1人でも堂々と、しっかりと行動し、生活できる自信があるということ、そして、世の女性にもやたらに群れないことを勧めたいというような話である。
私は、もともと若い時から結婚するにしてもしなくても、精神的にも経済的にも自立した生き方をしたいと思っていた。1人では何もできない、男性に頼らなくては生活基盤がないというようなことがないようにしたいと―。
私が23年前に就職したころは、まだ女性一人で遠方まで出張する、商談をするといったことが珍しいという面が残っていた。それに、今はほとんどないと思うが、「女性一人」では泊まれないホテルもあった。
私は20歳だったが、最初から堂々と仕事や行動をしようと決めていたので、ずいぶんちゃきちゃきとものおじせずにやる子だと思われがちだったが、人見知りの性格がビジネスでマイナスにならないよう、必死に自分を奮い立たせていたのである。力仕事も進んでやった。
男女平等ということがやっと浸透し始めたころだったが、世間では、まだまだ「男尊女卑」が存在していた。
女性だけがお茶当番やそうじ当番をするというのもおかしいとも、ずっと言い続けてきた。男女の適正や役割はあるだろうから、何でも見境なしに平等と言うつもりはないが、会議などで女性職員の手がいっぱいな時は、男性職員が手伝っても良いのではないかと思うのだ。
現在の部署では、腹立たしいことにまったく実現していないのだが、以前いた部署では、それに賛同する男性たちが、一緒にやってくれていた。
さて、それから時代はどんどん変わった。女性の社会進出はすっかり珍しいことではなくなった。1人での出張も当たり前になり、女性一人向けのホテルや施設なども増え、わが職場でも、やっと女性の役職者が登場するようになった。
世の中も、さまざまな分野で高い能力を持った女性がリーダーとなり各世界を牽引することを特別視しない風潮になった。
私はどんな場面でも、やっと普通に呼吸できるようになった。(続く)


【2007/11/28 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
東京第2弾報告①
天窓
八雲で泊まったホテルはまったく壁に窓がないかわりに、天窓がありました。ちょっと田舎のラブホテルみたいじゃね?


23日午後、友の会優先貸切公演を2階S席で観ました。
まず、近くの人が死ぬほど香水くさくて、芝居では途中から具合が悪くなり、ショーはうるおいマスクで防御。こんなのばっかりや~
さて、おさちゃんはとても楽しそうに演じていた気がして、うれしかったです。
おさちゃんのあいさつは、通り一遍でした。爆。

公演後、おさちゃんは仕事があるらしく、一旦ホテルに戻って夕食取りながら、ガードのスタンバイを待ちました。
レム、劇場側の部屋だったから、スタンバイの様子が見えて最高に助かりました。
そろそろ行くか・・・みたいな。
そして、コメントにも書きましたが、全く予想外だった、おさちゃんから一人ずつ手渡しのミニプレゼントをいただくことに。。。。涙・涙・涙。
私には最後まで縁がないと思っていたんです。
スミレの香りの入浴剤・・・あはっ・・・もったいなくて使えません。
忘れられない出待ちになりました。


●ミニエッセー473「ヅカノート2007冬より1・東京第1弾旅日記②」

昼公演はまったく問題なしだったのに、午後公演、ちょっと居眠りしちゃって、おさちゃんごめんね。
やっぱり1日2回はきついかもしれない。
なるべく無理しない日程にしたのだけれど・・・ラストまで。
われわれさえこんななのに、生徒さんたちって、すごすぎる。
午後は東京初の2階だった。
来週も自力席は2階が多いんだよなぁ。

<11月18日>
頑張って起きた。初・入りに行けた。
しかし、化粧する時間はなし。そう、得意のすっぴんで行きました~
つけまつ毛もなし。眉毛もなし。しかし、素顔でもけっこう濃いし。爆。

昼間、ひまだったので、マミさんがブログでスタッフが並んで買ってくれて、甘いけどおいしかったという話題のクリスピークレ(「リ」か???)ームというドーナツ目当てに、有楽町イトシアに行った。
一通り、各階を物色。
とても素敵なバッグとかがあったけど、おさ貧乏の私には目の毒なだけだった。
そして、地下に行ってみると、すでにドーナツごときに1時間30分の行列。
地元や札幌のミスドでせいぜい待っても10分・・・からしたら、シンジラレナ~イ。
しかし、待っている間、焼きたてドーナツ1個試食サービス(あたたかいの、超うめぇ)あり、メニューを配ったり、工房を公開するなど、まあなかなか工夫していた。
オーソドックスなのを9個買った。頑張って北海道まで持ち帰る。
ミスドと比べるのが楽しみ。

帰り、羽田空港に着いてどっきり。
悪天候のため、乗る予定の前の便まで、なんと札幌行きが欠航と遅れ。
しかし、さすがのわっちさん。予定便は予定通りに飛んだもの。
久しぶりの東京からANA。発券システムが変わったが、かえって余計な紙くずがたくさん出て、不合理にしか思えない。なんとかしろよ~!!!

千歳は積もってはいなかったのに、途中から圧雪、吹雪、猛吹雪と、ひどい中を車を運転してやっと帰宅。ろくに主人と話もせず、主人は寝てしまった。
自分の部屋がどんだけ凍り付いているかと、寝るまでの間、部屋を暖めようと2階のヅカルームに上がった。
すると、もうすでに暖かくなっていた。電気ストーブが点けられてあった。

ペット・・・いや、だんなさまに感謝。




【2007/11/27 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
JAL機内誌おさちゃんの話
うさぎ
おお、半分ずつ白黒のうさぎさんだ。バーベスタ八雲にて。

第2弾の旅報告はもう少し待ってください。

今月のJAL機内誌、おさちゃんのウクレレ話の記事が載ってますよね~。
最初は職場のFさんに教えていただいて、自分が乗った時思わず何冊か機内誌をゲットしたわっち。
まったく本人の写真がないというのがなかなか新鮮でいいっ。


●ミニエッセー472「ヅカノート2007冬より1・東京第1弾旅日記①」
私の意識では、実際の季節とは関係なしに、春野さんの東京退団公演からとうとう冬に入った。
恒例のヅカノートから、初日3日間の「東京第1弾」の旅日記を抜粋することから、冬バージョンのスタートである。

<11月16日>
朝、家を出発前、NHKにアマミーが出ていて、ついロングインタビューをすべて観てしまった。
今月末に観るミュージカル「テイクフライト」のことでもあったし・・・。
気付いたら、30分近く予定をオーバー。
あわてて免許更新手続きのため警察署の窓口に行った。
続いて、千歳空港へ行く途中にあるはずの帰ってきてから行く予定の取材先を下見だけしようと、寄ってみたが、なんと道路工事で片側通行で足止めを食い、20分も無駄にしたあげく、場所が分からないまま、時間切れに。
テンション落ちて空港に着いたら、今度は駐車場が工事で混んでいて、いつもの2倍、場所探しをしてしまった。
なのに、超余裕の予定を立てていたおかげで、1本早い飛行機に乗れることに。

でも、1本早く飛んでもそれが遅れ、初日15分前に到着。
以降も飛行機が遅れた様子で、予定便では間に合わなかったってことだね。
神様ありがとう!!

羽田の京急駅で、コブクロの歌がかかる、助けた動物が変なことをする車のCMで、前に乗っているドレッドヘアーの個性的な太った男の子(あの演技が好き)にばったり会った。
間違いなく本人で、みんなに注目されていることにまんざらでもない様子だった。しかし、演技でなくて、なんかあのまんまかも。
彼は・・・縄跳びでパフォーマンスをするグループの一員なんですってね。

初めて泊まった東宝すぐ前のレム日比谷。
場所は便利すぎる。
いろいろ突っ込みもあるが・・・。
写真を撮ったから、そのうちブログで紹介しよう。

<11月17日>
ふぇーん。朝、やっぱり起きれなくて入りガードを挫折。
というのも、前日の夜、出のガードで北国の意地を発揮できず、ビル風にやられて冷え切ってしまい、なんだか鼻がぐずぐずし、寒気がするんで、寝る前に風邪薬を飲んだから。
その時点で、70%、朝起きれないだろうなと覚悟。
一度起きたものの、心の中でそばにいるのにおさちゃんごめんなさいと叫びつつ、目覚ましをかけ直し、ぎりぎりまで寝ていた。

レムに泊まっていると、行動がぎりぎりでもいいやってなってくるね、こりゃあ。
大休憩中に、部屋に戻って休もうかなと思ったら、がっくり~掃除中で、余計な荷物を置くこと、出ガード用品を取ってくることしかできんかった。
おかげでシャンテをうろつくはめになり、結果、予定外の出費。とほほ。
レムさんに開業記念に500円のシャンテショッピング券をいただいて助かったにゃぁ。笑。

(続く)

【2007/11/26 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(6)
W観劇&マミさん誕生日
はーベスタ
ハロウィンの飾りがいっぱいだった八雲のケンタッキーレストラン・ハーベスタ八雲。中には入りませんでした。

本日は入り待ち後、W観劇して北海道へ帰ります。
午後は花組総見。わっちは総見席ではないのですが、楽しみです!!

そして本日、マミさんこと真琴つばささんの誕生日です。
おめでとうございます。
1週間だけお姉さんだ~。


●ミニエッセー470「自分と創作5」
現在、仕事ではノン・フィクションの世界ばかりやっている。
つまり、事実を取材して、事実を書く。自分の味付けは、ニュース記事以外の部分の中のほんのちょっとである。それでも、その味付けこそ、生命線ではある。
仕事でのひそかな楽しみはそれくらいだ。少しは感性を生かせる場面だからだ。
それ以外の部分は、うまく組み立てていく、はめ込んでいくといったような「職人」的な仕事と感じている。それも、だんだん自分なりの面白さを見つけれられれば、少しは楽しい。
が、いかなせん仕事で書く、編集するというのは、制約が多く苦しいものである。
殊に短い文章ほど難しいことを痛感している。
それから相変わらず、字数制限がある中で、気に入るタイトルを付けるということがなかなかどうして手ごわい作業だ。
「子供のころあこがれていた職業」でも述べたが、昔はジャーナリストやライターも真剣にではないが、いいなと思ったこともあった。が、これはフリーとなると偉いことだろうなと想像している。出来のいかんで食えるか食えないかになるからだ。
私が組織の一員としてやれていることは、幸せなことだ。
              ◇
さて、今年いっぱいで春野さんが退団し、来年からは今までより時間ができると思うが、書く活動より、まず来年は、今までためにためてしまった観ていない宝塚関係のビデオ・DVD鑑賞を消化し、このブログも続けたいと考えているので、もしちゃんと創作活動をするとしたら再来年以降になろう。
しかし、「ちゃんと」と言っても、あくまでも趣味レベルでと思っている。
作品をまとめてまた自費出版という手もあるが、自費出版はお金が掛かるので、安易には手が出せない。それに、しばらく一般向けにはつくっていないのだ。
人は、何らかの形で自己表現をしていく生き物である。万人がそれを職業にするわけでもなく、その程度、手段、方法は人によってさまざまだ。
それができず、あるいはその方法もわけも見つけられず、自分の殻から出られないでもがき、心の病になったり、よからぬ方向に走るというケースもある。
また、やりすぎて同じことに陥る場合もあろう。
そんな中、私は日常、若干苦悩しつつも楽しみながら書く場面を与えられていることに、そしてそのレールを敷いてくれた両親をはじめ、今までと今の環境に心から感謝している。
【2007/11/25 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
JCB貸切と美容整体
パノラマ館
噴火湾パノラマ館の中は特におもしろくありません。ぶへっ。

本日は入り待ちと11時のJCB貸切公演観劇後、美容整体へ。
そして出待ちに戻ってくるという予定です。


●ミニエッセー470「自分と創作4」
「ストーリーは最高に面白い、でも表現が真面目でかたすぎる」とのよく分かっている指摘を受け、書き直すことになった。
その時、編集部のおばさんが、「あなたみたいな人が、アイデアテーラーなり、書ける人がライターになるという、ユニット作家というのもいいと思うんだけど」と言ったことを覚えている。
まあ、それはそれで良いが、私は書けない人という、ありがたい言葉をいただいたわけだ。
とにかく、ある程度品格は保ったまま(あんまり軽いものにしたくなかったので)少し書き直し、予定より半年くらい遅れての掲載となった。
少しSFチックで、「気持ち」「愛」「感情」「心」が売買・交換できる世の中の設定で、結果、人はどうなるのかというような内容であった。
私は、外に出た時点で、作品はもう自分だけのものではないという感覚を持っている。自分も含めて、あくまでも読む人のものになっていく。どう感じてくれても読み手の自由であり、書き手の意図の通りに受け止められなくてもOKだと思う。
公に出すのだから、書き手の責任はもちろんある。しかし、世間に送り出してしまったら、いつまでも「自分のかわいい子」ではない。だから、あまり強い愛着を持たない。
ただ、今の仕事で作っている本はちょっと違う。毎月継続されていくもので、毎回毎回より向上が必要であり、特に自分の担当した記事は、反すうしなければならない。そんなに楽しいことではない。仕事になるとそういうものだ。
SF的作品が雑誌に載ったのを最後に、小説は書かなくなった。
そのころから、バブルがはじけ、世の中は変貌してきた。何を書いても日常起こる事実のドラマ性に負けると感じるようになった。
別に大変な事件ばかりが起きる話だけが小説ではない。ありきたりな日々に大切で普遍なテーマもたくさん潜んでいる。
しかし私自身、40数年平々凡々な人生というわけでなく、さまざまな地でさまざまな本当のドラマを経験してきたので、それを超えるものでないとどうしても自分が納得できないという思いがある。経験してきたことまでのレベルではつまらないのである。
要するに、私は話を作り出すことで、普段経験し得ない未知の世界に自分を投影させて楽しんでいたんだなと気付いたのである。
だから、普段から本もドラマも映画も、よくある話、自分が体験してきたような話には、一切興味がわかない。
よって、特にいろいろな恋愛を経験してきたという思いがあるから、「恋愛もの」には手が伸びなくなってしまった。何を見ても「私の本当のドラマのほうがおもしろい」となるわけだ。
それから今に至るまで、ちょこちょことひねりだしては、プロットを書いている話は、どれも少しリアル感に欠ける「ありえないだろう」と、突っ込まれるようなものである。
でも、それでこそ虚構であり、エンターテーメントのような気がする。だから宝塚の舞台にひかれるというのも、そんなことからきているかもしれない。(続く)

【2007/11/24 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
早くも東京第2弾へ
ぼけた
昨日の続き。セルフで写したら、自分がぼけてしまった。いい具合だ。

本日から東京第2弾の旅へ。
本日は午後の友の会優先公演を観て出待ちに望みます。

25日まで、またまた緊急報告事項はコメント欄でいたします!!


●ミニエッセー469「自分と創作3」
短大の国文科時代もサークルでの音楽活動のかたわら、結構短編小説や詩を書いた。
私がそんなことをやっていることは、友人も恋人も知っており、みんな応援してくれていた。
授業でも、小説を書く科目があり、見本として、取り上げられたりもした。
ちょこちょこと雑誌へ投稿し、小さな賞をいただいたりしていたが、きょうだいも多く、現実的な問題から、とにかくある程度の収入が見込める所への就職を当面の目標にしていたので、プロになるということは考えていなかった。
趣味くらいでちょうどいい、そのほうが楽しいと思っていたのだ。
結婚してから、高校時代からそれまでの詩をまとめて「パープル・ムーン」として自費出版したことは、前に書いた。
「セカンドラブの思い出」の時に述べた、片思い時代にたくさん作った詩は、その恋の終わりとともに、とてもくだらないものに思えて全部捨てた。今となってはもったいない気がする。
母の付き合いで、一時、市民教養講座の詩の教室に通っていた。その時の縁で、その時の先生ともともと詩をやっていた母を中心に、本格的な詩の同人誌が創刊されることになり、今でも続いている。
私は、自分の好きな系統ではないので、同人ではない。
北海道では、結構有名なものであり、母が作品掲載とともに編集人を続けているが、私も舞台で言えば客演―詩を寄稿したことがある。
そしてその後、市で第1回市民文学賞が制定されることになったので、出品してほしいと詩の先生にも母にも言われ、小説部門にブラックユーモア的な中篇小説を出した。
すると、それも絶対的な自信はなかったのだが、最優秀賞をいただいてしまった。
その優勝・入賞作品が冊子になり、報道関係にも配布されたこともあり、NHK北海道放送から朗読によるラジオドラマに採用させてほしいと連絡があり、実現した。
それから、某新聞社の出版する雑誌の編集部から、新作の小説を書いてほしいという依頼が、また友人が編集していた科学系の雑誌から、エッセー執筆の依頼が来た。
エッセーのほうは、スムーズにいったのだが、新作の小説をと言われて、気構えてしまい、どうも精神状態と同じように「固い文体」のものになってしまい、低いテンションで原稿を送ると、やっぱり編集部からだめ出しがきて、アドバイスするから会いましょうということになった。
今、自分が編集者をやっていて、その時の経験が生きている。その時の編集部の偉い人の「上から目線」な態度が、反面教師になっている。(続く)



【2007/11/23 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1)
東京第1弾報告③
景色
先月取材の途中で寄った北海道八雲町の噴火湾パノラマ館からの眺め。


3日目は、午後公演に月組の麻子さんこと瀬奈じゅんさんと彩乃かなみさんがご観劇。
私は少し離れていたのですが、近かった友人によると、ショーで麻子さんが号泣して止まらなかったそうです。
どおりで、おさちゃんがずいぶん優しく、麻子さんを励ますような表情でやっていたと思った・・・。
組子もみんな麻子さんに舞台からアイコンタクト。

泣いちゃうよね・・・。
そうだろうなーと思ってました。
いろいろな思いが麻子さんにはうずまくだろうなと・・・。
一緒に、最後の舞台をやりたかったかもしれません。
でも、心はきっと通じているし、私達にとっておさあさは永遠です。
芝居も、ますます感情たっぷりで、とても良かったです。

麻子さん、かなみちゃん来てくれてありがとう!!

さあ、花組、おさちゃん、ファンの皆さん、心身ともに健康に頑張りましょう。

こぼれ話はミニエッセーの観劇日記に書きます。


●ミニエッセー468「自分と創作2」
小学校5年の大病から生還してから、それまでよりは家の中で遊ぶことが多くなったこともあり、そのころから学校の授業以外の趣味の部分での創作を始めたように思う。
テレビっ子だった私は、例えばシリーズもののドラマの別ストーリーを考えたり、続きを考えたりということもした。
それから、もし自分がプロデューサーだったら・・・などと、こんなテレビ番組、こんなドラマ、映画があったら・・・と、妄想の世界を数多く繰り広げた。
そこでは、幾ら自分のオリジナルとはいっても、ストーリー展開には山口百恵さん主演の「赤いシリーズ」や人気刑事ドラマ「太陽にほえろ」が影響していたことは否めない。
だからどうしても、悲劇が多かった。
そのころから作詞・作曲もよくした。短大時代のバンド活動に至るまで、おそらく、500曲以上作っただろう。
中学に入り、長期休みの自由研究で、得意の悲劇的な中編小説を書いたら、全校コンクールで最高賞の金賞を取った。
まったく出来には自信がなかったが、先生や生徒たちの共感を得たことは、「まだまだやれる」という気にさせられた。それでも、まだどこか外へ発表するという段階ではないと心得ていた。
高校生になり、エッセーも書くようになった。そして、3年生になり、受験勉強に集中する前に何か一つ書き上げようと女子高校生を主人公にした小説を作った。また、悲劇だ。
いよいよ、高校最後の思い出に一度外へ出してみようかなと、軽い気持ちで北海道のジュニア作家界では最も有名な「有島武郎青少年文学賞」に応募した。
そのことさえ、忘れかけたころ、主催事務局の北海道新聞社から、応募したことを知らなかった母に入賞の知らせが届いた。
これは、新聞社から地域の支局を経由して、学校にも知らせが行き、高校始まって以来、初めての出来事だと大騒ぎになり、北海道新聞社での表彰式の数日後、わざわざ全校集会が開かれ、学校としての表彰式までやっていただくという恥ずかしい事態になった。
担任や国語・古典担当の先生たちは、授業でもいちいち私の名前を出した。「わっちさんは、直木賞作家になるかもしれないから、みなさん、注目していてください」などと、とんでもないことを言う先生もいて、本人は真っ青だった。
新聞社からインタビューも受け、私の写真とともに掲載されたものだから、父は舞い上がって職場で何十枚もコピーして配りまくった。
確かに賞をもらったことは、自分の自信になったし、もともと良いはずの内申書ももっとよくなるだろうとは思ったが、私はとにかく希望の短大に受かりたいというのが、当面の夢だった気がする。
新聞社での表彰式は、母とまだ小さかったS子と出席したのだが、終わってから母が笑って言っていた。
「講評会の時、真っ先に出されたケーキを食べ、いち早く完食し、まるで優勝したように堂々としていたのは、お姉ちゃん(私)だけだった」と。
ちなみに、その時優勝した人は、今某雑誌の編集長になっている。(続く)

【2007/11/22 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
東京第1弾報告②
マミトーク
面白かったマミさんとやっちんのトークライブの案内板。


2日目は、若干疲れていた様子のおさちゃん。
でも、昼はFCの良席だったので、視線ゲットで幸せでした。
午後はイチロー選手が観劇されていたこともあり、中詰めでピッチャーに扮したりして、気合を入れて頑張っていましたが、芝居で「缶詰は使えないぞ」を「せっけんは使えないぞ」と言ってしもうた、お疲れのジョジョ・・・まっつ、ごめんね。
そして、私も午後せっかく2階SSだったのに、えらい眠くて・・・ちと船こいでごめんなさい。

出はあまりにガードの人数が多く、お手紙の手渡しはなし。
でも、とにかくおさちゃんが疲れないことが一番なので、一目会えただけで嬉しかったです。

(続く)


●ミニエッセー467「自分と創作1」
絵を描いたり、詩作したり、小説や脚本を書いたり、何かをつくったり・・・総じて、創作することが好きなのは、一体なぜなのだろう―と考えることがよくある。
それから、今まで、どれだけ、どんな「作品らしき」ものを生み出してきたのかと、振り返ってみることがある。
しばらく、そんな話をしたい。
今は、何がなくても宝塚が一番だし、仕事で雑誌づくりをしていることもあってそれなりに充足感もあり、たまに物語のプロットを書き記すくらいで、なかなか本格的に創作活動をできないでいるのだが、多趣味でやめてしまったものもある中で、これだけはずっと続いている。
やはり、両親がアマチュア画家と詩人なので、その血を引き、そういうことを自然とさせられて育ったということもあるだろうが、幾らそういう環境があったとしても、本人が好きじゃないと続かないだろうから、結局は私自身に「好き」だという才能があったのだろう。
「作る才能」ではなくて、あくまでも、「作ることを好きになる」ことに対しての才能である。本物の才能なら、今ごろ稼業が違ったことだろう。
絵画や工作については、まだ幼稚園に入る前のころ、親が言うところの天才的な絵を描いて、かなりほめられていた記憶がある。
ところが、幼稚園、小学校と授業で作るものは親は気に入らなかったらしく、「わっちちゃんの感性が入っていない。教えられたものを描いて(作って)いる」と、よく言っていた。
要するに、理論が加わってくると、「味」や「個性」が薄くなり、優等生的な作品になっていたのだろう。
父は、娘が言うのもおかしいが、本当に素晴らしい油絵を描く人だ。ところが、私が少女~学生時代は、とにかく仕事が忙しくて、あまり絵を描かなかった。もし、もっと頻繁に一緒にスケッチに行ったりしていたら、私の趣味は今とは変わっていたかもしれない。
絵といえば市のコンクールで賞をいただいたこともあったが、もっぱら、デザイン画やストーリー漫画を描くようになり、中学の時に漫画クラブに居たぐらいで、素人レベルから上にはいかなかった。
あとは、家の間取りを考えたりするのも好きだった。
一方、今も詩人である母親の担当部門とも言える作文や詩や小説の分野は、調子に乗って結構頑張った。
小学校高学年になるまでは、自分が「好き」だという意識はあまりなかったのだが、担任の先生にほめられることが多くなってから、「ああ、少しは人よりうまいのかな」と、書くという行為が苦でなくなったのである。
自分としては、例えば「自由に詩を書け」と言われた時も、テーマが与えられた時も、絶対他人はそれを題材にはしないだろうというようなテーマ選びのオリジナリティには、子供ながらに自信があった。
「どうして雲は白いのだろう。雲の上を歩いてみたい」「今日は朝起きて歯を磨いて服を着て・・・」などというありきたりなことは、絶対書かなかった。
自己表現というものがどういうものなのか、なんとなく分かっていた気がする。
そのことも、ずいぶん先生がほめてくれた。それはそれは、うれしかった。
人間、何事もちょっとしたきっかけである。(続く)


【2007/11/21 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
東京第1弾報告①
CD
PCを持っていかなかった時なのでホテルの部屋にCDプレーヤーが備わっていて助かりました。HHI万歳!!

さて、花組東京公演、泣いても笑ってもおさちゃん最後の東京・・・信じられないのですが、始まってしまいました。

まだおさちゃん中心にしか観ていないのですが、おかげさまで開演に間に合った初日は、大劇場楽の好調がそのまま、いやもっと良くなったという感じで、とてもとても充実の舞台で、安堵したし、良い初日でうれしかったです。
基本的に芝居もショーも大きな変更はありません。
みんな初日は緊張して台詞や歌詞の間違いはちょこちょこありましたが・・・。
初日あいさつの前に、おさちゃんはとても緊張していた様子でした。
初日アンコールは3回いくかと思ったら2回でした。

出は、おさちゃんのDVDか何かの撮影のため、サングラスなし、にこやかすっきりかわいいおさちゃんがゆっくり歩いてくれて幸せでした。


(続く)

●ミニエッセー466「ブラボー!樹里咲穂さん」
CSスカイ・ステージ5周年記念の各組のトップスターと若手スターを迎えての公開トーク番組「JURIのどんだけGOGO5」で、名司会ぶりを見せてくれているOGの樹里咲穂さん。
その前、そして現役時代もレギュラー番組を持ち、われわれが観たいスターの素顔を引き出してくれ、その采配には脱帽だった。
今、「どんだけ―」は、春野さん、安蘭さん、瀬奈さんの回まで放送が終わり、来年になるという次回の水さんの巻を楽しみにしているところだ。
以前、日記の記事で春野さんの回のことを少し書いたが、疲れ気味で時々心ここにあらず状態の春野さんをうまく料理していただき、春野さんファンとしては、樹里さんに感謝でいっぱいだ。
それから、安蘭さん、瀬奈さんの回も、テレビの前で爆笑するとともに、樹里さんの仕切りの素晴らしさに感心、感動した。
瀬奈さんの時は、春野さんの話もふってくれて、うれしかった。
さて、樹里さんといえば、現役時代、なぜトップスターにならなかったのか、劇団は何をしているんだという、憤りみたいなものを勝手ながら感じていた。
人をひきつけてやまない、愛らしい人柄と、2枚目でも3枚目でも、何をやらせても安心でき、おもしろい舞台を展開してくれる抜群の役者としてのセンスは、トップにふさわしいものだと思っていた。
また、遠野あすかさんという、「名コンビ」と言えるお似合いの相手役もおり、特に樹里さんひいきのファンの方々にも、大きな羽根を背負った姿を見せたい思いが、退団後もしばらく消えなかった。
日生劇場の花組選抜メンバーを率いての「アーネストインラブ」で主役という形で退団し、作品も成功裏に終わったことが、救いだった。
それから、退団後すぐに女優としての活動を始めるやいなや、さらにきれいになり、柔軟な活躍ぶりにひくてあまたになり、次々と舞台に出演し、結婚もされ、ブログで拝見しても、公私共にとても充実しているようで、一種の安堵を覚えている。
時間的にもトップスターにならなかったからこその「今」なのかなとも思うが、やはりもう少し現役として主役の舞台を観たかったというのは、本音だ。
退団後の樹里さんの舞台を生ではまだ1度しか観劇していないが、来年からは、ぜひより近くで観て、エールを送りたいと思っている。
そして、「どんだけ―」が終っても、またぜひ違う形でCSで会いたい。樹里さんが出ないスカイステージは、寂しい。
適当にやっているように見えて、樹里さんの仕事の仕方はとてもクレバーで、本当にファンのニーズを理解している。
私は、実はとても繊細で、気配りの人である樹里さんの素顔を、90周年の運動会の時に、控え席そばで見たことがある。
樹里さんの関西弁を聞き、笑顔を見ていると、元気をもらえる。
どうか体に気を付けて、これからもますます飛躍してほしい。





【2007/11/20 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(4)
オルゴールdeタカラヅカ
生き残り花
他のホテルに移ったので、昨日の写真の花からなんとか生き残ったものを持って行き飾っていました。


しぇーーーーーーー
帰ってきたら真冬になっていた北海道・・・どうなってんの!!!


東京初日から3日間についてのご報告は、もう少しお待ちください。

宝塚の名曲をオルゴールミュージアムホールオブホールズ六甲のオルゴールで演奏したCD「オルゴールdeタカラヅカ」。
思っていたより良かったです。
というのは、この手のものっていろいろ持っていますが、どれも眠くなるんですよね。
夜子守唄に聞けばいいのかもしれませんが・・・。
でも、今回は意外にテンポもあって、どの曲も素敵でした。
やっぱり宝塚の曲っていいなぁ。
特にファントムとエリザベート・・・あらっ、海外ミュージカルばかりだった・・・。


●ミニエッセー465「サードラブプラスアルファの思い出4」
高校の卒業アルバムには、自分の顔写真・氏名の下に自分の一言メッセージが掲載されるようになっていたが、W君の欄に「美しい青春の思い出、そして旅立ち」(若干違うかもしれないが)と書かれていた。
もちろん、私との思い出だけのことではないかもしれないが、それを見て私は、彼があの喫茶店で必死に切り出したあの話は、実は本心ではなかったのではないか、何か事情があったのではないかとさえ思ったのだ。
それなのに、私は新しい恋しか見えていなくて、一生残る卒業アルバムには、「今」のことしか書かなかった。W君への配慮に欠けていたと、思い知ったのである。
その時夢中だった恋も、壮絶な終焉を迎えた。高校3年の春から丸3年たったころだ。
そしてW君の後日談その2がある。
私が社会人1年のある日、残業を終え、疲れて電車に乗り、すぐ寝てしまったようで、もうすぐ自分の駅に着くという時にやっと目が覚めた。
人気がまばらな電車の中、ボックス席に1人きりだったはずの私の目の前に、懐かしい笑顔があった。私は何より彼の笑顔が好きだった。
W君が優しい声で「おはよう。よく寝れた?」とささやく。
一瞬、夢ではないかと思ったが、現実だった。
札幌の大学3年で、大学から実家に帰るところだったW君が、ふと席を移動しようとすると、眠る私を見つけ、ずっと寝顔を見ていたのだという。
「W君、かっこよくなったね。やっぱり私が好きだっただけある!」と言うと、さかんに照れていた。
そして、私がその時、ひとりぼっちだということ、私立大学の職員だということ、彼の大学の話などをちょっとしていると、すぐ私の家の駅に着いた。
「送っていくよ」―。
彼は、まだその先の駅なのだが、途中下車し、歩いて30分もかかる私の家まで、送ってくれるという。
「あのころ、こんなことがなかったから、なんだかうれしいな。あのころのわだかまりも何もかもこれですべて解けたみたい」。
そして、私は自分の実家でお茶を飲んで行ってと勧めた。4年ぶりくらいにW君が現われ、私の家族はびっくりしていた。
夢の時間はあっという間だった。
電車があるうちに・・・と、今度は私が仕事から帰ってきた父に運転を頼み、車で今来た道を戻り、彼を駅まで送りに行った。
電車通学・通勤ではこんなドラマもあったのだ。車通勤の今、その時のことを懐かしく思い出す。
それこそが、本当のW君との別れになった。淡い恋のエピローグだった。
W君は、夢をかなえ、大学を卒業して立派な公務員になった。高校の何十周年記念誌に載っていた。
いまごろ、どこかの地方で偉い人になっているころだろう。その職業は、誠実で真面目な彼らしい堅いものだ。
結婚したという話も聞いた。子供は何人いるんだろう。良いお父さんなんだろうな。
手をつないだことしかなかった、美しい青春の思い出の人だ。
                ◇
一旦、恋の話のフィナーレとしよう。
私にかえがえのない思い出をくれた素敵な人たちに、あらためて感謝したい。
にがくても、つらくても、寂しくても、悲しくても、切なくても、やっぱり恋はいいものである。




【2007/11/19 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
東京「マルセイユ」3日目
花と
村第2弾の旅でホテルに飾っていた花です。


本日3日目は3時30分公演を観て帰ります。
午前は入り待ち、チェックアウト後、時間まで銀座をぶらつこうかと思っています~。


●ミニエッセー464「サードラブプラスアルファの思い出3」
普段、恋に奥手な親友が、そこまで思い詰めているのは、本気なのだろうと、私は自分の心を隠し、YさんとH君とその友人S君(このS君は、別の私の親友が好きで、別途なんとかしてくれと頼まれていたが、結局だめだった・・・人心は難しいものだ)をわが家に招待し、なんとか私とその友人S君が席をはずし、2人にさせようとたくらんだ。
ところが、なかなかそううまくはいかなかった。
私は卒業するまで、その時のつらかった気持ちをYさんには話さなかった。
これも、かなり後で知ることになるのだが、実はその時、申し訳ないことに、H君は私が好きだったから、Yさんのことが目に入らなかったのだそうだ。
なぜ分かったかというと、私が社会人になって2年目に、東京に就職したH君から「寂しいです、会いたいです」と手紙が来たからだ。
彼は、私がW君と別れたから、チャンスが来たと思っていたそうだが、やがて私が違う人と付き合ったから大ショックだったのだと言った。
なんだ、そうだったのか・・・。
そのころ私も決まった彼氏もおらず、ちょうど東京に出張することになり、向こうで待ち合わせ、食事をし、ディズニーランドに行った。
でも、それだけだった。
その時の行動で、私は思っていた以上に彼が子供っぽい人だと気付き、友達以外のなんでもないなと実感したのである。成人同士なのに、弟より少年と話しているようだった。
高校を卒業してから彼に再会するその間に私は大変なことを経験し、彼を追い抜いて大人になってしまったらしかった。
さて、話を高校時代に戻そう。
今度はW君の後日談その1である。
高校3年になって、私は、この回の1回目に「中身の濃い次の恋」と述べた、新しい恋に出合うことになる。仮にその相手をM君としよう。
同学年だったため、学年合同の勉強会などに、進学組だったW君や私やM君が一緒になるということがあった。
ある時、私とM君が隣り合わせに座って、勉強会の開始を待っていると、W君が友達と教室に入ってきた。
W君は、私たちを見て、友達に「ぼく、ここにいたくない」と言い、出て行ってしまったのである。
分かり合って別れた、しかも自分から言い出したのだから、私に対して未練があるのはおかしい、私の新しいしあわせを喜んでくれていいのではないかと、私はその時、W君の態度が女々しく思えたのだが、彼の複雑な胸中を知ったのは、卒業アルバムを見た時だった。(続く)

【2007/11/18 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(3)
東京「マルセイユ」2日目
おかし
村のお茶会で参加者がいただいた特製お菓子。クッキー地の上のホワイトチョコの上におさちゃんの写真をチョコで薄くプリントしてありました。帰りの飛行機まで頑張って持っていましたが、どんどんクッキーが端から崩れていくのを見るのがしのびなく、機上で食べました。


本日は2日目。
2回とも観ます。
入り出もするとフル活動デーです。
しぇー。

どんな席かしら・・・。
FCから取り次ぎ結果葉書(第一弾)が来るまで、果たして、何回観れるのかも不明なため、どきどきしていました。
お断りもあり、自力ゲットもありましたが、ありがたいことです。

特記事項はコメントでご報告します。


●ミニエッセー463「サードラブプラスアルファの思い出2」
高校2年の春近い土曜の午後だったろうか。喫茶店で、何時間も何時間も話し合った。
私はずっと泣いていた。本当は別れたくはなかったのだと思う。
「思う」というのは、彼が話した内容ははっきりしているのだが、自分の感情がどうだったか、今ひとつ思い出せないのである。
店の人が、気を遣って、最初は明るいBGMが流れていたのだが、雰囲気に合わせて、もの悲しい音楽を流したことも鮮明に覚えている。
彼が言うには、「きみ(彼は私をきみと呼んでいた)は華やかで、友達たちの中心で、ぼくなんかが誘い出すのはなんだか違う気がして、今までデートもできなかった。そうこうしているうちに、受験シーズンがきて、ますます勉強のために、きみと遊ぶという機会もなくなり、きみにも悪いし、これからは友達でいたほうかいいと思う」というもの。
確か、受験が終ったらまた付き合うということはないのかというようなことを聞いたと思うが、その答えがどんなものだったかも忘れてしまった。
私は最後に「私と会えたこと、今まで付き合えたことは良かったと思ってる?それとも後悔している?」と聞いた。
「良かったよ。高校時代の最高の思い出だった。ありがとう」―その言葉を聞いて、ようやく喫茶店の椅子から立ち上がることができた気がする。
最後は、握手をして別れた気がする。
そして偶然、補講か何かを終えた通学友達のM子ちゃんに駅でばったり会い、一緒に乗って住む町まで帰ってきた。
W君は地元の人で、私やM子ちゃんは隣町から通っていた。
泣いている私の事情を聞いた彼女は、一緒に泣いてくれた。
「でも、そういう別れならいいんじゃない。美しい思い出になるよ。憎しみ合って別れるんじゃないんだから。わっちさんには、きっとまた良い出会いがあるよ」―一生懸命慰めてくれたその気持ちがうれしくて、なおさら涙が出た。
実は、W君との後日談も幾つかある。それは次章に譲る。
時系列でいうと、私がW君と別れたという話を聞いて、仲良く親切にしてくれたのが、これまたその時隣に座っていたH君だった。
彼もまた、弟のようなタイプだった。
もしかしたら彼と仲良くなれるかな・・・と思っていた矢先、私は親友Yさんから衝撃的な告白を受けた。
Yさんが「H君が好きだから、なんとか仲をとりもってくれ」というのである。
おお、神様!!
世の中、うまくいかないものだ。(続く)



【2007/11/17 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
東京初日、間に合うか
つばさ
おさちゃんの村でのお茶会の入り口の飾り付け。


本日からとうとう東京公演が始まってしまいます。
本日、仕事を休んで駆けつけるのですが、当初、仕事上休めないかもしれないから、飛行機が少しでも遅れたら開演に遅れるかもしれないけれど、覚悟して午後から早退して飛ぶつもりでした。
休めるようになったので、飛行機を変更しようと思って、ハタと気付いたんです。
運転免許がもうすぐ切れると・・・。
手続きに行かなくっちゃー。

ということで、免許更新手続きをしてから、空港に駆けつけます。
そんな事情で、チケットは会に頼めず、自力で万一遅れてもなるべく座りやすい席をゲットしました。
出待ちもスタートです。

PCを持たずに行くので、東京第一弾については、後日ご報告いたします。


●ミニエッセー462「サードラブプラスアルファの思い出1」
勢いに乗って次は、高校時代前半の恋、名付けて「サードラブ」の話だ。それに、短かったが、そのあとの小さな恋もプラスアルファとして思い出したい。。
しかし、懐かしい恋の思い出として今語れるのは、さすがにここまでで、その次の恋は、人の生死も絡み、とても中身が複雑なので、いつか「時」が来るまではお預けとしたいと、今は思っている。
さて、どうやら、私は隣に座った人が好きになるらしく、その人も高校1年の春に転校した先でたまたま隣になった頭が良く優しい男の子である。名前をW君といった。
ただ、とにかく彼が気弱で、マザコンだったので、デートらしいデートさえできず、淡い恋のまま終わってしまって、何の発展もなかった。しかし、だからこそ、美しい思い出である。
私は黙っていても注目を浴びる、目立つ転校生で、いつも話題の中心に居た。しかし、彼はクラスでも目立たない大人しいグループの一員で、ともすれば不良っぽい連中にからかわれていた。
一見、不釣合いな2人だが、私はそんな彼が弟のように思え、守ってあげたい気持ちになった。
最初は転校生の心を独り占めしたW君は、最初いじめられもしていたが、やがてクラスのみんなが、私たちの純愛を応援してくれるようになった。
何がきっかけで仲良くなったのだろうか。とにかく席が隣だったから、休み時間などにいろいろな話をしているうちに、意気投合したのかもしれない。
だんだん、当時流行していた「授業中の手紙のやりとり」をしたり、先生の目を盗んで授業中手をつないでいたという仲になった。
でも、それだけだった。付き合いは2年にも及んだというのに、お互いの家に行ったのはそれぞれ1回ずつ。
それから、デートといえば、修学旅行の自由時間に、京都の町を歩いたくらいだった。
高校1、2年といえば、みんなそれぞれ楽しい恋の話で盛り上がっている時期である。初体験がどうのという声も聞こえてきていた。
けれども、私にとっては、彼氏はいるのに華やかな話は何一つないという不思議な2年間だったのだ。
その愚痴を聞いてくれていた友人たちがいたから、なんとか楽しい高校生活と言えたのだが・・・。
彼は姉がいたが、1人息子で期待の跡取りだった。そして、不器用だった。だから、進学の時期が近づくと、恋よりも勉強を取ったのである。それに対して、別れを納得した私も結局不器用だったのだと思う。
今思えば、本当に相手が好きならば別に、両立はできたのではないだろうか。なぜ別れる必要があったのか、よく分からない。というのが本音だ。
思い切って、嫌いになったとふってくれたのなら、まだいい。ところがそうではなかったことが後で分かる。こういうのが、一番困る。
その「別れ」の話し合いは、結構ドラマチックだった。(続く)

【2007/11/16 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(7)
東京準備大変でした
宝ホデザート
宝塚ホテルのレストランでの「アデュー・マルセイユ」公演記念デザート。


なにせ、大劇楽以来、年末の仕事おさめまで、私にとって実質の休みは11/3・4・10・11だけでした。
いよいよ明日から東京です。
その間、入院中の弟の見舞い、このブログの準備とプリント、たまっていた写真の整理、おさオリジナルシールづくり、お手紙用意、荷造り、購入した舞台写真の整理、自力チケットのことなどなど、忙しくてえらいっこちゃでした。
それに、少しは体も休ませなければ・・・とか。

100%思い通りにとはいきませんでしたが、なんとか明日から年末までノンストップで頑張れそうです。

皆さん、応援よろしくお願いします。
おさファンの皆さん、無理せず頑張りましょう。


●ミニエッセー461「セカンドラブの思い出3」
当時、デートをすると行っても、町民体育館で卓球をしたり、バドミントンをしたりするくらいしかなく、健全な逢瀬だった。
スポーツをしていたまでは・・・。
休憩をしようということになり、座れる場所を探したが、その時混んでいて、どこもなく、救護室になる予定の空き部屋があり、ドアを閉め、そこの畳に腰掛けていた。
男が狼であることにまったく気付いていない純情な私は、いきなり何の心構えもなく、押し倒され、無理やりキスをされてしまい、パニック状態に陥った。
ファーストキスが、ロマンチックなものになるようにと夢見ていたというのに・・・。
私は、文通を始めたころには、長年の片思いが成就したこともあり、届いた手紙を何度も何度も読み返すほど、本当にT君が大好きだった。
でも、互いの気持ちの温度差がありすぎた。
私はまだまだ子供だったのだ。
彼は、大人の付き合いを目指していたようだ。その時は、それ以上のことは起こらなかったが、彼の言葉でよく分かってしまった。とてもついて行けないと感じ、一挙に恋の風船はしぼんでしまったのである。
そして、高校入学後すぐに、1年生全員が北海道・空知管内の宿泊研修施設に泊りがけで研修に行った。
私は、申し訳ないけれど、もうお付き合いしたくないことを態度で示そうと、彼の視線や、話し掛ける言葉に無視を続けた。
けれども、私の写真がほしいと、友達を通じて写真を撮りにきたり(その時の写真が、後に不思議なものが写り込んだ心霊写真だった)、研修の最後には、とても寂しそうな顔で「じゃあね」と、私の頭をなぜた姿が今も忘れられない。
言葉を交わしたのは、それが最後だった。
彼は細見で身長180cmほどの人だったが、とても小さく見え、申し訳なかったなと思っている。
その翌月には私はやはり転校することになった。なのに、ちゃんとしたお礼もお別れも言えず仕舞いだった。
彼のおかげで、人を恋し、あこがれるときめきや、離れていても相手を思いやることの尊さを知ったというのに・・・。
ちょっと強引だった彼の口づけも、彼の不器用さの裏返しだったんだなと、気付くには、本当に子供だった私を許してもらいたい。
今、Tさんもきっとしあわせだろうと信じている。
ところで、この話には、後日談がある。
別の町に暮らし、別の町で社会人になり8年目、総務課で人事を担当し、全職員の履歴書を新ファイルに差し替える作業をしていた時、一瞬私の目と手が止まった。
ある先輩女性職員(在職中)の履歴の本籍住所と旧姓を見てしまったからだ。実は、怖くていまだにその彼女に詳しく聞けていない。
でも、間違いなく、その職員はTさんの姉か、でなければ親戚なのだ。よく見ると、顔が似ているではないか。それを知った時はかなり動揺してしまった。
その方とは、同郷だという話はよく笑ってする。しかし、私が3年間もT君に恋こがれていたことは、明かしていない。
まったく世の中は狭いものである。

【2007/11/15 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(4)
来年春の楽しみ
大橋から
先月久々に宝塚大橋から眺めた大劇場。


そんな話が出ていたから「覚悟」???はしていたのですが
来年の春、またマミさんが中山秀征さんと舞台をやるそうで・・・
時期によっては宝塚観劇も兼ねて旅ができそう。

やっぱり来年も忙しいかも、わっちとしては・・・。


●ミニエッセー460「セカンドラブの思い出2」
ほとんどの生徒が地元か、もしくは管内の高校へ進むという中学で、T先輩が別管内の旭川の私立高校へ進学するということを知り、泣いた。Sさんもだろう。
T先輩の合格が決まり、彼が卒業し、私が間もなく中学3年になるという春休み、私は意を決して彼に電話をかけ、旭川に行ってしまう前にせめて文通をしてほしいと頼んだ。
なんと、積極的、でも純情な恋だろう。
願いはかなった。彼は、Sさんには悪いけれどと、より思いが強いと感じた私を選んでくれたのだった。それも、タイミング良く、彼は好きだったクラスメートにきれいさっぱりふられた後であった。
だからなおさら、遠くの町に行こうとしていたようだ。
それから手紙のやり取りが始まり、私が中学3年になったある日、私が旭川のKおばさんの家に遊びに行く時に、街で待ち合わせをして、会うことになった。T君との初デートである。
待ち合わせ場所まで、いとこのA選手についてきてもらった。
今、必死にその時のデートのことを思い出そうとしているのだが、指輪だったか、ネックレスだったかを買ってもらったこと以外は覚えていない。
ただ、彼が着ていたコートだけは覚えている。
しかし、その年はそれだけであった。そして、文通も途絶えがちになった。
というのも、私は受験勉強をしなければならなくなり、秋には思いがけない事態が起きたからだ。
なんと、T君が高校を辞めて、地元に帰ってきてしまったのだ。そして、彼は、私と同じ地元の高校を受験し直し、同じ学年になるというではないか。
その時点で、私は少し思いが冷めるのを感じた。自分が選んだ道を途中であきらめてしまうとは・・・と。
そうまでして、同じ高校に行ったとしても、私は転勤族の娘で、またすぐどこかへ行かなければならないかもしれないのに・・・と。
みんなの噂も気になった。
「T君は、旭川の暮らしになじまなかったのか。どうして1年遅くなっても、地元高校を受けるのか・・・」。
実は、私はT君と文通し、一度旭川で会ったということは、親友にしか話していなかった。
お互いに合格したら、会おうね―という手紙は来ていた。そのころは、私が受身で、彼が積極的で、当初とはなんだか逆転現象だった。
そして、クラスは違ったが、二人とも同じ高校に合格し、先輩だった人は同級生になった。
そして、約束通り、私が中学を卒業した春休みにデートすることになった。(続く)

【2007/11/14 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(4)
忘れやすいDVD予約
MBS
梅田のMBS(毎日放送)付近っていつもにぎやかですよね。


なるべく、宝塚のDVDやCDは、送料が掛かりますが、ネット通販で買うようにしています。東京や関西で買って、ほかの旅荷物に入れて送り、万一破損したら嫌なので。
札幌まで行けば売っている所もありますが、なかなか行けないし、待てないし・・・(すぐ観れなくても、とにかく早くほしい人)。
で、買う予定の物の予約が開始されたらすぐ予約するようにしているのですが、今、HANKYUBOOKSとTCAピクチャーズと二つサイトがあるから、間違って両方で予約してしまい、ダブルで届くという経験を何度かしております。
ばかや~
片方だけの利用に決めてしまうことと、予約したものを控えておくことですよね。
おさちゃんのラストデーまで予約したぞ。
CS番組編集DVD「OSA」は買わないつもりです。今は。


●ミニエッセー459「セカンドラブの思い出1」
初恋に続き、その次の恋を振り返ってみる。
が、これもとても「苦い」幕切れになった。
前回からの続きになるが、中学1年で転校し、その前に4年間、幼稚園から小学3年まで暮らした町へ戻った。
またまた、この「セカンドラブ」の話の前に「セカンドラブなりそこない」の話がある。
転校した先では、なんと小学3年に去る時に同じ班だったS君という、帰る方向が同じ男の子がまた同じ班だった。狭い町だから、そういう偶然はあるわけだ。
それで、思い出話に花が咲き、ちょくちょく一緒に帰るようになった。彼は小柄な人だったが、男気があり、「あれ、これって恋なのかなぁ」と、互いに意識し始めたころ、私は相変わらずモテていたので、嫉妬した誰かが噂をたて、やんややんやと騒ぐようになった。
そうなると、なんだか一緒に帰りづらくなり、自然消滅した感じになった。
そして私は、中学1年生の3学期に、生徒会の仕事をするようになり、そこで1年上のT君に出会ってしまったのだ。それが、私が「セカンドラブ」と自分で呼んでいる恋の相手である。
この話は、少し複雑な経過をたどることになる。
中学時代、私はずっとこのT先輩が好きだった。結構一途だ。
T君は無口でクールに見えた。なぜ好きになったのか、明確な理由がある。それは、当時NHK少年ドラマシリーズで絶大な人気を得ていた俳優、熊谷俊哉さんに雰囲気が似ていたからだ。
彼の家が中学校のすぐそばだったこと以外、よく知らなかったが、「あこがれ」の気持ちが止まらなくなり、周りの友人たちにも話し、バレンタインデーには彼の下駄箱にチョコレートと手紙を置いて告白した。
その後、廊下や委員会などで会えば、ちらっと見てくれるようにはなったが、実ることはなく、悪いことに同じ委員会の隣のクラスのSさんという女の子も彼に告白したという話が出て、恋のライバルとなったわけだ。
後で知ったことだが、そのころT先輩は、幾ら告白されても、後輩の私たちにはあまり関心がなかったらしい。というのも、彼もまた両思いではなかったが同じクラスに好きな女の子がいたからだ。
そんなこととも知らず、いつか振り向いてくれくれないかと、切ない片思いが翌年度も続いた。
しかし、その時私は中学2年、彼は3年。受験の時期だ。委員会は終ってしまいなかなか会えることも少なくなったが、勉強の邪魔をしてはいけないと思っていた。
Sさんも、無理やり付き合ってほしいと願い出ることもなく、おそらく、同じようにつらい気持ちだったことだろう。
私はそのころ、人生でこんなに創作意欲がわいたことはないというほど、たくさんの片思いの乙女心を綴った詩を書いた。
思春期の片思いの恋は、何を見ても切ない気持ちにつながったものだ。空を見ても海を見ても、テレビを観ていても、何をしていても。
振り返ると、そういう自分に酔っていたのかもしれないが、なんともかわいいものだった。(続く)





【2007/11/13 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(4)
宝塚プラスという本
せっけんと
大劇場で販売されていたマルセイユ石鹸と、初日のころホテルの部屋に飾っていたバラ。


昨日は今年おさちゃん退団までの最後の「実質休み」で、ほとんど寝ていました。
夜になって、ちょこちょこと作業開始・・・。
リズムが狂って眠れないよぉ。

見掛けない宝塚本が売っていたので買いました。
小学館クリエーティブ発行の「宝塚プラス」。
特集はとうこちゃん、水さん、タニちゃんの新トップについてで、あとは退団者、観劇評やOGについて・・・あら、これはまさしく「宝塚アカデミア」形式じゃないの・・・執筆者もかなりかぶっている。
そういう説明は書かれていなかったが、まるでシリーズをやめた青弓社から引き継いだかのようだ。
1となっていたから、第2号以降も出るのだろう。
出せば売れる宝塚本。
きっと次回はどの本も「さよなら、おさちゃん」的なものなんだろうな・・・。


●ミニエッセー458「初恋の思い出2」
彼は、偶然私と同じボーイスカウト(私はガールスカウト)活動をしていた。だから、4年生になっても会うことはでき、最初は仲良くしていた気がするが、やがて私はガールスカウトを辞め、それぞれ友達も変わり、なかなか一緒に遊ぶ機会は少なくなった。
それでも、私は一途に彼が好きという気持ちが変わらず、クラスにどんな素敵な男の子がいても目もくれなかった。
できれば将来結婚したいということもぼんやり考えていた気がする。
小学校5年の時、私は春から秋までずっと病気のし通しで、恋どころではなかった。彼が見舞いに来てくれたかどうかも今ではまったく覚えていない。
そして、6年生になって、事件が起きた。
私は、バレンタインデーに女の子からチョコレートをもらったことがあるくらいどちらかというとリーダー気質で性格は「男前」だったのたが、ビジュアルが美少女だったので(笑)、男の子にもモテる方だったが、ある日、クラスの男の子I君からラブレターが届いた。
「きみが好きです。卒業する前に一生のお願いだから、秋まつりに一緒に行ってください」というような内容だった。
そのころ私はG君への思いは変わらなかったものの、G君からまったく何を言ってくるわけでもなく、きっともうどうも思っていないんだろうなと勝手に解釈し、どうしてもデートをしてほしいという普段から私に優しかったI君の思いに応えることにした。
私には、G君に気持ちを確かめる勇気がなかったのである。
I君は、私がほかのクラスの男子にからかわれて泣かされた時、かたきをとってやると、その男子のところに行って、けんかをしてきた人である。前々からI君の気持ちには気付いていた。
わずか1時間くらいのおまつりデートだったが、それが、たちまち学校の噂になり、G君の耳にも入ることになった。
G君は激怒した。実は、G君は私を思っていてくれたのだった。
もうおしまいである。
子供ながら、男気の強いG君は、断固として私を許さないと、友達を通じて言ってきた。
取り返しのつかないことをしてしまった。
I君ともなんとも気まずい感じになった。
そして、そのまま卒業した私は、G君と同じ中学校に進み、隣のクラスになった。
中学に入ってもG君の怒りはおさまらず、私の顔も見たくないという雰囲気で、誰かが「かつてカップルだったのに、どうして仲良くしないの」などと言われると、大声で拒否していたようだ。
でも、それほどまでに本当は好きでいてくれたことに、今は感謝している。
私は夏休みが明けて、転校することになった。ああ、これで、私のなかがった初恋が終るんだなと、「苦い」けれども、安心した気持ちにもなった。これで、G君も私のことを忘れてくれるだろう。嫌いになって別れるのは、彼にとっては良かったかもしれないなどと当時、考えたように思う。
時がたって、大学受験の時、ある日新聞の大学合格者欄に懐かしい名前を見つけた。おそらく、同姓同名はいないだろうという珍しい名前だったので、間違いはなかった。
地元の高校に進んだらしいG君は、青森県の工業系の大学に合格していた。果たして、その大学に進学したかは分からないし、今どこで何をしているか分からないが、謝る機会さえなかったG君に、会って話をしてみたいとも思う。
あれから30年だ。きっと、彼ならばたくましい社会人に、そして良き家庭人になっていることだろう。
古い写真の中でとびきりの笑顔を見せているG君が、懐かしい。

【2007/11/12 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(8)
マミさんグッズ申し込みする
グラス
これが何か、「ベルばら」の舞台をご存知の方なら分かりますよね。私にはあこがれの品々・・・近くで見れてうれしかったです。


マミさんのFCイベントの写真やら来年のカレンダーなどの申込を先日しました。
来年もあるって・・・いいことだね。

でも、でも・・・おさちゃんの来年グッズも一部できる予定なんですよ、東京FCでは・・・楽しみだなあ。


●ミニエッセー457「初恋の思い出1」
だいたいにして、初恋というものは、年月がたつほどどこか甘酸っぱくて、良い思い出と言えるものだと思うが、私の初恋は幕切れが幕切れだっただけに、ほろ苦い…いや、「苦い」思い出だ。
この話の恋の前に、幼稚園のころ気になる男の子が2人いて、なんとそのうちの1人と社会人になってからデートしたという経験もあるが、私が自分の初恋と自身で認定しているのは、小学校3年から中学1年まで続いた一途な恋である。
途中まで、明らかに両思いだった。だが、私のばかな行動で、「苦く」なってしまったという物語の「はじまり・はじまり」である。
小学校3年の春、父の転勤により、道北の港町に引越し、転校した。彼―G君は、その時隣に座っていた同じ班の男の子だった。
まだ女の子の友達も定まらないうちから、G君はいろいろ親切にしてくれた。なかなかがっちりした男らしい子で、見た目は目鼻立ちがはっきりしていて、いわゆる濃いタイプだった。
特に自分が彼を好きなのだと意識したのは、たけひごとセロファンでパーツが動く影絵人形を作り、班ごとに「アラジンと魔法のランプ」を演じるという図工(図画工作)の授業があった時のことだ。
私はヒロインのジャスミンで、G君がアラジンになった。その当時、まだ小学校3年生だというのに、ラブシーンがあったから、今思うとすごい。
学校で作りきれなかった分は、班ごとに集まって作り、台本読みや人形の動きなど発表会の時間までに練習して来いということになり、班のみんなでG君の家に集まり、一生懸命人形を作って、動きやセリフの練習をしたことをよく覚えている。
ラブシーンが恥ずかしくて、周りにひやかされながら、真っ赤になって演じていた記憶がある。実際当人同士がキスをするわけではなく、人形同士がするのだが、純情な私にはセンセーショナルな出来事だった。
そのことがあってから、G君と私は急速に仲良くなり、時々一緒に帰ったりするようになった。でも、家の方向は違った。彼が、私の家まで送ってくれたのである。
そして、時々、彼は家に遊びに来るようになった。
もちろん、まだ小学3年生のふたりは、ただ遊ぶだけ、一緒におやつを食べるだけの仲だった。
そうしてせっかく周囲も家族も公認で仲良くしてきたのだが、小学4年生になってクラス替えがあり、彼と私は別々のクラスになってしまった。
その小学校は道内有数のマンモス校で、当時7組もあったからしかたないが、これがもし同じクラスだったなら、2人の運命が違っただろうと思う。(続く)
【2007/11/11 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
村千秋楽記者会見を観て
馬車
プチミュージアムに展示してあった「ベルばら」のガラスの馬車の後ろ側。きれいやなぁ。


CSのニュースで大劇場千秋楽後のおさちゃんの記者会見を観ました。
あそこまで、アップにしなくても・・・たはっ。
内容は先に公式HPで読んでいましたが、本人もフェアウェルで言っていたように、記者会見を見てもなお、実感がない、実感したくないという気持ちです。
やっぱり緊張していたんだなー。いろいろ行事があったから・・・。

あらためて、おさちゃんお疲れ様。
あっという間に東京も始まってしまう・・・なんだか切ないなぁ・・・。


●ミニエッセー456「宝塚編集部に願う」
以前も少し述べたが、「歌劇」や「宝塚グラフ」あるいは歌劇団発行の印刷物などを読んでいて、気になって仕方がないことがある。
「文字使い」の不ぞろい(不親切)のことだ。
何度かアンケートなどにも書いて要望しているが、残念ながら参照してくれていないようだ。
私が仕事で関わっている雑誌の編集部は、とにかく読者への分かりやすさを第一に、また同じ言葉が片方が漢字で片方がひらがななど、不統一がないようにしている。
それぞれの編集部の方針だろうが、わが編集部では原則として、共同通信社刊「記者ハンドブック―新聞用字用語集」に従っている。今はそのソフトもあり、パソコンに入れておけば、自動的にその漢字使いにすることもできる。
宝塚では、例えば、生徒が書いた直筆のものをそのまま掲載する時は仕方がないが、そのほかについては「編集」の役割を果たしていないと感じる。
編集はいわば、誌面の大掃除・整理人である。読者が読んで分かるように記事を整えるのが仕事だ。
執筆者が分かりにくい言葉を使った時は、趣旨を変えないようにほかの言葉に置き換えたり、読みにくい漢字にはルビをふったり、場合によっては説明を加えたりするべきだ。
ところが、「歌劇」「宝塚グラフ」などでは、どの記事も、例えば「有難う」と「ありがとう」、「煩い」(これはどう考えてもひらがなで書くべきだ)と「うるさい」が混在していたり、副詞の「ちょっと」を「一寸」と書いていたりする。
また、時々、文語や旧かなづかい、当て字まで出てきたりして、びっくりすることがある。
編集者は、詩や川柳などで、わざとそうしている場合以外は、直ちに直さなくてはならないはずだ。
なるべく漢字を使う方針にしているならばそれでもいい。投稿などはその人の漢字使い(ただし、正しいものだけ)を生かすことにするならそれでもいい。
だが、それならば難しいものにはルビをふるべきだ。
しかし、幅広い年齢層の読者がいることを考えれば、なるべくひらがなを使うことを基本にする方が、見た目もソフトだし、親切ではないだろうか。前掲の「記者ハンドブック」は、その方針になっている。
もちろん、校正作業は大変なものだ。何人が懸命にチェックしても、網目をすり抜けてしまうことはある。ましてや「歌劇」も「宝塚グラフ」も結構なボリュームがあるから、なおさらだろう。
けれども、せめて一般的には漢字で書かない言葉をわざわざ漢字にし、しかもルビなしで掲載するのは、控えていただきたいと切に願っている。
【2007/11/10 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
スカイ・ステージ本
おしばな
昨日の続き。「押し花が・・・」・・・ああ、おさ明智、かっこよすぎだったなぁ。


サンケイから発売された「スカイ・ステージの世界」。
先日、花組千秋楽前にキャトルレーブで先行発売されていて、マミさんはいるわ、現役はいるわ、TCAとかも出ていて、豪華なのに2,000円・・・。
それを思うと私が仕事で作っている雑誌は高いよな~
いや、それ以上でも以下でも買いましたけれどね・・・爆。

マミさんが、いしちゃんとホテルで仕事があったと言っていたのはこれだったんですね。対談!!うれしかった~
そして、現役生ではとうこちゃんの写真がきれいで感動。

おさちゃんは・・・インタビューの微妙な発言に注目。
本物の男役はもうしない、にせものってあるのかなって・・・どういう意味かしらん。
むむーーーーーーーー・・・・

・・・・うーむ・・・

・・・・(長いっ)。


●ミニエッセー455「デパートよどこへ行く」
小学生の時、やっとデパートがある町に住んだ。たまに日曜、家族でデパートに行き、レストランで食事をするのが楽しみだった。
今のようにショッピングモール、大型のディティスカウントショップや東急ハンズ、ロフト、100円ショップなどができるまで、どこの地でもデパートは、あこがれの場所であり、わくわくする空間、賑わっているというイメージだった。
宝塚歌劇でも数年前、衰退していくデパート文化にエールを送ろうと珍しく正塚先生がショー「デパートメントストア」をつくった。
しかし、業界では多少の「勝ち組」はあるかもしれないが、昔ながらのスタイルを保っているデパートは苦戦しているように思われる。
なぜ、こんなことを書くかというと・・・。
最近連続して関東と関西の老舗のデパートに行く機会があった。
正確には、そのデパートに付随している劇場に行ったのだが、わざと店内各階の様子を見ようとエレベーターでゆっくり上がってみたのだが、予想以上の閑古鳥状態に、他人ながら経営は大丈夫かと心配になったからである。
関東の方は平日だったが、それでも店員のあまりにも暇そうな風景は気の毒だった。若干の景気上向きというのは、デパート社会ではないなと思われた。
セレブなお得意様が定期的に利用しているのかもしれないが、やはり高級な品揃えの傾向があるだけに価格が高いというイメージから、デパートは敷居が高く、近寄りがたいのは、自分自身もそうである。
今や、気楽に立ち寄れるさまざまなディスカウント店やカジュアル層の店で、そこそこの質でリーズナブルな物が、幾らでも買える。
また、忙しい時は通販を頼る。通販の品も良質になってきた。
札幌の例を見ると、地の利から駅直結の「大丸」さんは割と常に賑わいを見せているが、ほかは、例えば「京都」「九州」などの食べ物市など、イベントを開催しないと今一、人が入らないようである。
ただ、どのデパートも地下食品売り場を充実させ、そこで何とか稼いでいる気がする。
また、札幌ではフロア改革をしているデパートもある。今までパターンとしては、だいたい1階に化粧員や女性の小物というのが多かったが、1階を一番にぎわう食品売り場にし、ゆっくりできる地下に女性の靴やバッグを置くというものだ。
最近東京有楽町に、丸井系の大型ショップビルができた。
なるほど、客層やテーマを絞った大型店はどこも勝っているかもしれない。今や時代は「高級な百貨」ではなく、「かわいいコレ」「かっこいいアレ」など、より明確なビジョンを提案し、品物も価格帯も多岐にわたって用意することが求められている。それほど、人の生き方、生活も多様化してきた。
そんな折、石油価格、小麦製品の高騰、消費税額の上昇の噂にも関わらず、賃金が下がるという市民には劣悪な経済状態の兆しが見えている。ますますデパートに向かう足が減る。
特に老舗のデパートは、生き残りのために、何らかの工夫が必要だろう。
寂しいことだが、やがてデパートというのは死語になる日が来るかもしれない。


【2007/11/09 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
ルサンクのマルセイユ
こま
思い出すねぇ。明智さん・・・「コマがなんだぁ~~~」続く。


今回の花組公演のル・サンク。
いつになく、じっくり「マルセイユ」の台本を読んでしまいました。
というのも、聞き取れない台詞が何個かあったから、確認の意味で。
もちろん、写真もじっくり見ましたけれど・・・。
あんまり見ていたら涙が出るな・・・。


●ミニエッセー454「アデュー・マルセイユにツッコミ2」

6.お礼の手紙
「アメリカの婦人クラブにお礼の手紙を書かなくては」とマリアンヌ。でも・・・もう、電話がある時代なんだから、手紙もいいけれど、本当に感謝しているならば、真っ先に電話したらいかったんでないの。
そうしたら、実はそれが嘘だったと早く気付いたものを・・・ははは。

7.主催者は対象外
ダンスコンテストで、優勝ペアを発表する時、わざわざ「なお主催者は対象外となっております」と説明が。
そんなのあたり前じゃん。記念品を提供するオリオン興行の社長が自分で自分の石鹸アートをもらってどうするんだよっ。
あの台詞は絶対無駄だ。

8.鑑定家
偽札の鑑定家、眉月さん演じるギョーム氏って、なんであんなに漫画チックというか、ふざけた感じのキャラにする必要があるのかな・・・。リアルでせっぱつまったミステリーの一番良いところに、笑いのスパイスは要らないのでは。
あそこで、客席から失笑がくるが、私は毎回むっとしてしまう。
いくら、じいさんでも良いが、笑いを取らなくてもいいよ。

9.信ずる
べラン警部がジョジョに言う。「お前が言うことを誰が信ずる?」・・・。
「信ずる」って・・・。なぜ、「信じる?」じゃだめなの???
信ずるって・・・あんな場面では特に、誰も言わないでしょ。

10.薄い便箋
薄い便箋で、封筒の内側に張り付いていたという市長汚職を告発するメモ・・・。モーリスが出して見ているのを観ると、とてもそんな薄い便箋で14年前も気付かなかったようには見えないのだが・・・。
それに、一緒に入っていたお金って・・・なんのお金か、よく分からないのは私だけ?

11.アデューの必要性
これを言ったらおしまいなのだが・・・ジョジョは別にマルセイユに別れを告げる必要がないのでは。
だって、故郷なら、いつでも帰ってきたらいいじゃん。仕事が忙しくてなかなか来れないのかな。
あんなに意を決して「アデュー」とか言わなくても、恋人(遠距離恋愛だけれどもさ)も親友もいるんだし・・・。何の心配も要らないと思うんだけど・・・。
二度と帰って来れないような設定じゃないと、気持ちよく泣けないじゃん。
よく考えれば、あくまでも一つの任務を終えて、一旦帰りますってだけの話なんだよなぁ。
悲しすぎない退団公演にするための小池先生の配慮なのか?
【2007/11/08 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
春野さん退団写真集に思う
こわい
大劇場花組初日の時に観たプチミュージアムにあった「明智小五郎の事件簿」に使われたさなえさんの首人形。こ・・・こわっ。


おさちゃん退団写真集「MOMENT」ですが、何より「あさきゆめみしⅡ」の舞台写真がうれしかったです。
当時、これのル・サンク特別編集が出るものとばかり思っていたら、退団写真集に入るということで、とても楽しみにしていました。
あの夢のように美しかったおさ源氏がよみがえりました。

沖縄ロケ編は、自然なおさと男役なおさが満載。
自然なおさも好きだったけれど、やっぱり男役のおさが好きだな・・・。
来年からは男役なおさ写真は見られないんですね・・・。

2冊買いましたが、1冊は切り離してスキャンし、マイオリジナルシールとか作るつもりです・・・
が・・・そんな時間がいつ訪れるのだろうか・・・。



●ミニエッセー453「アデュー・マルセイユにツッコミ1」
あくまでも、好きだからこそ、愛しているからこそ、そして寂しいから、せめて笑ってみようという気持ちなので、お許しいただきたい。
なお、「アデュー・マルセイユ」をこれから東京公演で初観劇という方はいわゆるネタバレなので、ご注意願いたい。

1.季節はいつなのか
ジョジョはコートで登場するし、最後もコート姿。夏以外であることは確かだ。市長夫人は毛皮のはおりもの。秋なのか。
しかし、逃げてきたのどかちゃんは、幾らあわてて来たといえ、あんな格好だが、全く寒そうではない。なぜ~。
外でのダンスパーティーでも女性がスリップドレスでいる。男性がコートの時期に、幾らなんでも寒いんでないの。踊るから暑いのか・・・。
アルテミス婦人同盟メンバーは、事務所では半袖、5分・7分袖だ。
フランスの受験シーズンは春ころだと聞いた。
ということは、「大学受験資格」の試験は、もっと前だろうから・・・冬か、秋ごろか。
なんだかよく分からない。

2.若いボス
ジョジョやシモンは何歳なのか。14年前に生き別れた時、一体何歳だったのか。子供だがバイトをしている。若く見積もって12、13歳。普通に考えて14、15歳。
すると、今30歳前。なのにシモンはオリオン興行のボスっつーのがすごい。
「うちの若いもんがどうかしたか」という台詞があるが、シモン、あんたも若いぞ!!

3.ジョジョの誤算
地下水道で男からかばんを預かり、中のお金をシモンに渡して薬を買いに行かせるんじゃなくて、2人でなんでさっさと逃げないかな・・・。そんなかばん、そこに捨てて、まずは逃げなくっちゃ・・・。そうすれば、少年院に入れられることもなかったじゃん。

4.最初の任務???
ジョジョが少年院を出たのは、20歳くらい?「成人するまでここを出られない」という台詞があるから。
しかし、そこから数年訓練していたとしても、舞台ではマルセイユの密輸を取り締まるという任務が、まるで刑事になって一番最初の任務のように思える。
しかし、それでは年齢的に合わないじゃん。22、23歳のことに。そんなはずない。
一体何年訓練していたんだ。
最後、アメリカに帰るジョジョがマリアンヌに「向こうでの連絡先が決まったら教える」と言っている。
つまり、まだ定住先もないまま任務のためにマルセイユに来たらしい。やっぱり最初の任務なのか・・・なんだか腑に落ちないぞ。

5.モーリスの誤算
アルテミスのバザーで、モーリスはスコルピオからマリアンヌを助けて事務所移転に同意させるというなんだかせこい作戦を決行しようとして、ジョジョにはばまれる。
でもさ、ジョジョはワルの仲間に加わった(ふり)んだから、なぜその計画をジョジョにも教えておかなかったのさ、モーリス。
バザーには、ジョジョも来るって分かっていたんだし。
変なの。

(続く)




【2007/11/07 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
春野さん村フェアウェルパーティーを振り返る
高いグラス
村の初日に宝塚ワシントンホテルで食べた阪急交通社の食事プランコースのデザート。すごく長いグラスでした~。


参加できたことだけでも幸せだったおさちゃんのフェアウェルパーティー。
きっと、10分かそこらでおさちゃんはすぐ帰っちゃうんだろうなと思っていたのですが、FCの記念イベントがあり、結構長い間同じ空間にいれたので、とてもとても幸せでした。
でも、相当疲れたんじゃないかなぁ。
おさちゃん、ありがとう!!

おさちゃんがあいさつした内容などはわれわれの宝物なので、ここでは紹介しませんが、ただ一つ、「やっぱりこうでなくちゃ」と、言ってくれたのはうれしかったです。
つまり、1日朝からいろいろな人といろいろな行事があったけれど、やっとファンクラブの集まりに来れて、いつも見るわれわれがいる空間に安心した、緊張が解けたという感じで、リラックスムードでした。
かわいかったなぁ。(親心・・・???)

最後にFCスタッフのお別れのあいさつが。
泣いている方もいました。
いろいろ大変だったことでしょう。
東京でも手伝いが残っているのでしょうが、本当にお疲れ様でした。

暑い秋の1日で、会場も熱気で暑く、相当汗をかきました。


●ミニエッセー452「病気の話・再び」
昨日のミニエッセーでちらっと書いたが、実は今年の夏から顔以外に時々じんましんらしきものが出るようになり、先月とうとう病院に行った。
やはり同じような経験がある友人にアドバイスを受け、とりあえずは内科に行き、血液検査で内臓から来るものでないかどうか、帯状疱疹ではないか、みてもらったら、幸い、血はどの成分も標準内であり、まったく問題がないことが判明し、少し安心した。
何せとりあえず年末までは病気をしていられない。
診断された病名は「アレルギー性慢性じんましん」。前掲の友人とまったく同じだった。
アレルギーを抑える、夜だけ飲む薬を処方されたが、飲めばとにかく眠くなるため、本当は食後に飲まなくてはいけないのだが、寝る前に飲んでいる。夜は、やることがたくさんあるから、早く寝てしまうわけにはいかないのだ。
飲んでから3週間くらいだが、相変わらず出る時は出る。あまり、効果がないようならば、再度病院に行き、最終的には皮膚科に行こうかと考えている。
がまんできないほどかゆいということはないが、ぽこぽこと皮膚が浮くようなタイプのしっしんで、ちょっとでもかくと、棒状につながり、赤くなる。しかし、すぐに消える。
一体、どんなタイミングで何に反応しているのか観察し、考えてみたが、どうやら温度や湿度変化が関係している。例えば、室内から屋外に出た時、その逆などだ。それから、ふとんにはいったり、重ね着したりしてあたたまったり、その逆だったり・・・。
病院でも、「あまり体を温めすぎないように」と言われているが、リウマチ持ちなので、寒さ、冷えに弱いため、なかなかそうしないわけにもいかず、困っている。
アレルギー性というが、何に対してアレルギーなのか、なかなか分からないそうだ。
もともと乾燥肌なので、そういうことに加えて、年齢的なホルモンバランスなども影響しているかもしれない。
母に話すと、やはり私と同じ年齢のころ、悩まされたそうで、体質的に似ているのかなと感じた。
顔には出ないので、助かっているがとにかく観劇中に発症し、かゆくて落ち着かなくなるのが一番怖い。
以前、まだ薬を飲んでいない時に、急に足に出て、せっかくの春野さんの退団公演中に一時落ち着かないということがあった。
それで、いよいよ嫌いな病院に行くことにしたのだ。
もし、これを読んでいる方で同じような経験があり、改善された例があれば、ぜひアドバイスをいただきたい。
とりあえず今は、薬を飲みながら様子を見ている状態である。


【2007/11/06 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
春野さん村退団セレモニー・パレードを振り返る
石
美容整体で。マッサージ後、背中に石(玄武岩)を敷いてしばらく休んだ跡。この時は特に背中が張っていたので、店長さんが多めに敷いてくれました。石って不思議なパワーがあり、かなり癒されます。


春野さんの退団セレモニーやパレードを思い返しています。
客席もみんなで「おさ~」「おささーん」と呼ばせていただけてうれしかったです。夏美さん、ありがとうございます。
黒燕尾かとも思いましたが、緑のはかま姿で、ちょっぴり緊張しつつ、すっきりした表情でした。
組からはまとぶんが「卒業おめでとうございます」と、そして同期生からはとしこさんの時と同じ、とうこさんが何かをささやきつつ花の贈呈がありました。
あいさつは、すでにCSで放送された通り、簡潔ですが、深いものでした。
涙・涙で目をくもらすことなくアンコールの最後まで見詰められたことは、自分をほめたいっ。(これは立さんのごあいさつのまね・・・)

おさちゃん、本当に立派でした。

そして、パレード。
まずはFCのブロック分けに感心してしまいました。トップさんをFCメンバーとして見送るのは初めてなので、一体どういう仕切りになるのかと不安だったのですが、番号順にちゃんと場所があって。準備、大変だったでしょうに、頭が下がります。
ラッキーなことにちょうど電飾付き胡蝶蘭アーチの所。
あそこは一旦立ち止まってくれるし、ちょっと遠いけれど車に乗る所も見れたので、本当に幸せでしたね。
退団者のみなさん、きらきら輝いていました。
おさちゃんも、すべてのつきものが落ちたという透明な美しさ、かわいらしさでした。
最後、ちょっと涙ぐんでいたおさちゃん。
叫んだように、本当に、本当に大好き~!!

あのわれわれファンやかけつけたお客さんたちの温かい光景、一生忘れません。


●ミニエッセー451「ヅカノート2007秋より26・村千秋楽旅日記」

<10月27日>
めっちゃ行きの飛行機揺れた~。予定より寝られずがっかり。
なんと、私は前日午後9時から午前1時まで寝てから旅の支度をし、朝方30分だけ寝て出てきたのである。

やっと、ベルばらおしゃれミラーのがちゃがちゃ、全部そろったよーん。なんぼお金を使ったことか・・・とほほ。
お小遣いをくれただんなさま、サンキュー。
重なったミラーは、NつんやFさんのお嬢さんRちゃんらにプレゼント!!

ホテルに着いて、先送りしていた荷物を解いてショック~
私の必須アイテム、つけまつげを忘れたぜ!!
しかたない、明日買おう。

<10月28日>
昼公演、あんなに観やすい席とは思っていなかったので、得した気分になった。
劇場で水を買ったら、アクア5の5人のラベルでうれしかった。
雪組さんも、がんばれ!!

前楽の体臭事件には参ったものの、アドリブは楽しく、さよならショーも予想以上に素晴らしく、何せオークションでゲットした席が良くて、幸せだった。
ずいぶんおさちゃんの視線が飛んできたではないか。
実はこれもあまり期待していなかったのに・・・。
神様っているんだなと思った。
これでかなり満足したから、東京はどこの席であれ、落ち着いて観れそうだ。

ホテルに帰ったら、磁気カードキーが効かなくなり、フロントに電話。ずっと廊下でたたずむのって、みじめくさいわぁ。
磁気、私のパワーで吸い取っちゃったか????

実は夏から時々アレルギー性じんましんに悩まされており、通院し、強い薬を飲んでいる。
すごく眠くなるので、薬を飲まずに明日の早朝からの入りガードに備えたかったが、公演中に発症して落ち着かなくなるより、入りガードだけをあきらめてあとを頑張ることにしよう。

<10月29日>
入りガードができなかったのは残念だが、おかげでその後は最後まで元気で頑張れたので良かった。
しかし、つけまつげの位置を間違えて超変な顔のまま過ごしたのが不覚だった。東京では頑張ろう。爆

待ち合わせたわけでもないのに、幕間も終演後もNつんにばったり。やっぱりこの縁は本物らしい。

晴れてよかった。
おさも私も晴れ女だからね。

最後もお手紙集めがあるとは・・・。
予感がして、持ってきていて良かった~。
でも、「あさきゆめみし」の時の渡せなかった分だが・・・すんません。

おさ、長い長い1日、どんなに疲れたことだろう。
でも、最後まで幸せそうな笑顔でうれしかったよ。

<10月30日>
寝坊せず朝6時に起き、7時にチェックアウトでき良かった~。
関空に着いてチェックインしようと思ったら、ホテルのカードキーと同じに磁気が効かず、窓口で新券に交換してもらった。
やっぱりおさへの愛で磁気も狂わせたか・・・爆。

職場に着いても、頭の中は「マルセイユ」の曲でいっぱい。
Fさんは「ラブ・シンフォニー」の曲でいっぱいらしい。笑。

なんだかまだ夢の出来事だった気がする・・・。




【2007/11/05 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
春野さんさよならショーを振り返る②
帝劇
9月に観た帝劇「ドリームボーイズ」のポスターのマミさん、自然な感じで好きだな。


昨日の続きです。
最初にじっくりバラードを持ってきて春野さんの世界に引き込むのは良かったと思います。
残念なのは、「不滅の棘」「エリザ」「I GOT MUSIC」からの曲がなかったこと。ぜいたくいえば「天の鼓」も・・・。
今年上演の明智や源氏はないのはしかたないにしても・・・。
そして、「こんなにも愛されて」って・・・
メロディーが昭和、歌詞がストレートすぎで最初ちょっとひきました・・・汗。

でも、でも、心に残るさよならショーでした。

寂しいけれど、東京も楽しみです。

バラ・・・隣の人がもらっていたけれど、私は心のバラを今までたくさんたくさんいただいてきたからいいや・・・マケオシミ。


●ミニエッセー450「奇跡の人―生き返った母6」
私がテレビで宝塚に、天海さんに、「べルばら」に出会ったのが1991年の7月。つまり、母が悪くなったほんの数カ月前のことだ。これも運命なのだろう。
まずはすぐに舞台を観に行ける状況ではなかったので、「ベルサイユのばら」の月組公演ビデオや漫画本やアニメのレーザーディスクから入った。
それを一通り観て、「こんなに素晴らしいものはない」とそのころよくわが家に遊びにきていたS子にも勧め、2人ではまってしまったのである。
そして、母が入院したため、「ベルばら」は私やS子の心の支えになってしまった。オスカルやアンドレたちの生き様に励ましや癒しを求めたのであろう。
「ベルばらごっこ」をして、気を紛らわせていた。不安な心を忘れられるひとときだった。
宝塚や「ベルばら」があったから、難局を乗り越えられたという部分もある。病院と家、仕事、いろいろな雑用などで数日間、ほとんどまともに食べられず、寝られないという日もあった。
車を運転中に居眠りをしてヒヤッとしたこともある。
そんな時、自分には息抜きがある、楽しみがあるというのは、それだけでも精神的に助けられたのである。
舞台の台詞や振り、漫画もほとんど暗記するくらい繰り返し見た。それほど、普段家族をまとめなければならない私にはよりどころだったのだ。
そして、母が良くなった春に初めて生の宝塚の舞台を東京に観に行った。
それは、単に宝塚や天海さんが好きになったからということだけではなく、実は母が調子が悪くなってから約半年、どこにも遊びに行けなかった自分へのごほうび旅行でもあったのだ。
母が復活してくれたからこそ、今の私の宝塚ファン生活がある。
母とも宝塚を観にも行った。そんな日が来るとは、1991年の秋には信じられないことだった。
おかげさまで、現在67歳の母は、物忘れが多くなり、時々は体調の悪いこともあるが、もちろんぜんそくの発作もなく、過ごしている。しかし、不思議に私は母は一度死んでいると思っているので、今度いつ何があっても、驚かない自信がある。
もちろん、長生きはしてほしいし、なんとなく「生」の力は強い人だからそうなる気はするが、今は母はプラスアルファの人生を生きているから、そのことだけで十分幸せにで、ありがたく思うのである。
母は退院後、何度か病院に行った時「ほとんど死んでいたあの時の人と本当に同じ人かい?」と冗談を言われたそうだ。医師にとっても、ぜんそくの発作による心不全から生還した患者の例があることは、何らかの役に立っている気がする。
母の例とは少し違うだろうし、一概には感嘆には言えないが、例えば脳死状態でずっと寝たきりという家族が居る方に申し上げたい。尊厳死ということも理解はできるが、私は「奇跡」と大げさに言わないまでも、周囲が「希望」「祈り」「思い」「夢」を捨てたらそこで終わりではないかと思っている。ネガティブな波長らしきものが伝わって、復活の可能性が失われる気がするのだ。人の回復能力というもの、生と死というものは、現代医学だけでは、解明不可能な何かしらのパワーが影響する場合もある気がしてならない。
私たちは、母が何の意識がない状態でも、常に普通に話し掛け、呼び掛けていた。実は当時、看護師さんの中に「元気になったらすべて覚えていたという例があったの。人ってどんな力があるか分からないから」と言った方がいたのだ。母の自発の呼吸が戻ったのも、ひょっとしたらわれわれの思いが通じたのかなと考えなくもない。まだ死ぬタイミングではないと、察知したといおうか。
尊厳死に関しては、母自身もいろいろ思うことがあるらしく、セミナーなどがあると参加しているようである。
ともあれ、亡くなってしまったが知人のT医師の搬送の判断、R病院の姿勢、私たち家族へのたくさんの方のご協力、そして奇跡の人―本人のパワーと目に見えぬ力に、心から感謝している。
【2007/11/04 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
春野さんさよならショーを振り返る①
ななちょっこり
ドッグスリングに入ったななちさん登場。

春野さんのさよならショー。
じっくり思い出しています。
ふと、思いましたが、「明智」の東京お茶会で「歌いたい曲ベスト10」をおさちゃんが選んだ、まさにその中の上位が歌われたのだなと・・・。
思ったより、ボリュームがあったのがうれしかったです。

ここからは、東京でさよならショーを観る予定でまだ曲を知りたくない方はご覧にならないでください。

タイトルは正確じゃないかもしれませんが
私の一応良い記憶力では、この順でした。

「世界の終わりの夜に」
「レビュー誕生」
「アプローズタカラヅカ」
「エンター・ザ・レビュー」(主要スターたちも)
「HOME」(彩音ちゃんも)
「マラケシュ」
「落陽のパレルモ」
「アバルトマンシネマ」
「すみれ色のカクテル」(としこさん、ひーちゃん、きよみさん)
「黒いワシ」
「遠き山に日は落ちて~TAKARAZUKA舞夢」(組子たち。途中からおさも)
「ラ・エスペランサ」
「こんなにも愛されて」(新曲)

はぁ・・・うっとりだったなぁ。

明日に続く。


●ミニエッセー449「奇跡の人―生き返った母5」
明けて1992年になり、ぜんそくのほうは落ち着いてきて、リハビリの毎日を送っていた母だったが、どうしてもたくさんの種類の薬を飲まざるをえなくて、肝機能が悪くなっていて、肝臓が悪いと疲れるため、その回復を待つことになり、退院までにさらに1カ月半かかった。
そのころ、同じ病室の方々とも母もわれわれも仲良くなっていた。特に人懐っこい高校生だった妹S子は、「おばさま方のアイドル」だった。
肺炎の方、ガンの方、私も他人ではない、重いリウマチの方などがいたが、その後、ほとんどの皆さんが亡くなってしまって、母がそのたびにお葬式に行ったことは、残念でならない。
当初は生きるか死ぬか―状態が最も悪かったのは母だったのに、母はだんだんと健康を取り戻し、ほかの方々は天国に呼ばれてしまったとは・・・。
きっと、母はその方たちの分まで生きろという人なのかもしれないと、悲しい知らせを聞くたびに思ったものだ。
私たちにはおかげさまで春が近付いていた。普通に歩くことができるようになり、10月末からおよそ3カ月半、2月中旬に母は退院の日を迎えた。
遺言をいい、緊急搬送され、何度も「親戚を集めてください」と言われた悪夢の日々を思えば、まさに地獄からの生還。夢のような現実だった。
母を担当してくれたベテランの主治医は「医師人生でここまで奇跡的に復活した人を見たことがない」とおっしゃっていた。
看護者の家だった私たち夫婦のアパートも通常の暮らしに戻ることになった。家族はそれぞれ職場、学校に普通に通えるようになった。
母はまさに生き返ったのだと私は思っている。母の「もうけもんの人生」といおうか、本当の自分の人生がそこから始まった気がする。いつ発作が起きるかという不安は消えることはないにしても、普通に息ができる喜びは大きいと今でも語る。
今まで、医療費ばかりかかるからとあまりおしゃれにぜいたくをしなかった母だが、「せっかく再びもらった命だから」と、宝石や着物を楽しむようになった。数年後からは、発作への不安もかなり消え、積極的に旅行にいくようにもなった。
私たち子供は、それを本当に良かったと感じている。本当に生死の淵をさまよったと確信する話も母の口から聞いている。絶対に知り得ないはずの事実を絵に描いて説明したのだ。
4月、見舞いにきてくれた親類などを招待して、われわれ家族は感謝の会を温泉で催した。
父はあいさつに立ち「こうして家内が復活したのは、何よりも皆さんと家族の祈りの力と本人の生きたいという意志だったと思います。心から感謝しています」と述べた。
一度死んだ奇跡の人―私の母。50歳目前の第2の人生の出発だった。
そして、父も希望を出して地元の支庁に異動、私も就職して初めて異動になった。
実は、私にとっても1991年~1992年というのは、この母の復活劇とも関連する人生の大きな転機になった。今まで何度も述べてきたが、宝塚との出会いである。(続く)
【2007/11/03 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
ラブシンフォニー村千秋楽を振り返る
れんげ
れんげに盛り付けられた9月の月組公演ランチ。でも、箸で食べてくださいとのことでした・・・。


村千秋楽のショー「ラブ・シンフォニー」。
集中し、そして楽しんでいたおさちゃん自身はもちろん、組子みんなが盛り上がろうとする気迫、おささんや退団者への思い、そして、客席の温かい思いが一体となり、本当に素晴らしい、ありがたい千秋楽だったなと思います。
ショーも一場面一場面、一秒もおさちゃんを見逃すまいと、目の前の生徒さんには申し訳なかったけれど、必死に追いかけました。
できる限りオペラグラスでなく、自分の目で。
有終の美って、本当にすごい言葉です。
おさちゃんは最高に輝いていました。
それは、本人の力だけではなく、すべてがそう向かわせていた気がします。ファンとして、感謝でいっぱいでした。
たとえ、どんなに端っこの下級生でも、一人も手抜きしている人もなく、輝いている。舞台には本当に学ぶべきことがいっぱいです。
オケや指揮者やスタッフさんの力もすごい。特におさちゃんをより一層輝かせるために、みんなが心を合わせているのが伝わり、胸がいっぱいになりました。
燕尾での群舞が終わり、おさちゃんがせり下がると、無性に寂しくなり、それからフィナーレまでずっと涙ぐんでしまったものの、しっかりしっかり観ました。見つめました。
おさちゃんはちょっぴり表情がかたかったかもしれません。感極まっていたのか、それからもショーがあるので、緊張していたのか・・・。


●ミニエッセー448「奇跡の人―生き返った母4」
少しずつ自分で呼吸するようになり、睡眠剤を少なくしていった結果、母が、目覚めたのである。
ただ、意識が戻ったということではなかった。また、完全な自呼吸じゃないために人工呼吸と定期的な「たん取り」はしばらく続いた。
やがて、まったくしゃべれない状態だが、ちょっとした音に敏感になり、少しずつ意識を取り戻してきた。幻覚を表現することも少なくなり、周りが分かるようになったのだ。点滴だけの日々も解放され、水も飲めるようになった。チアノーゼ状態になったにも関わらず脳への後遺症もなかった。
いつものように病院にきて、次々と母を見た家族や親類は、大きな喜びに包まれた。
まずは、光に向かって一段階上った感じだった。
しばらくしてから、人口呼吸がはずされ、食事も普通にできるようになった。そして、一般病棟の6人部屋に移り、切開した喉のふたを締めると不思議な声でしゃべることができる状態になった。
たまにはぜーぜーしていたものの、少しずつ本来の明るさを取り戻し、徐々に回復していく姿を見るのはうれしいものだった。
そんな時、切開部分から行っていた「たん取り」で、病院の医師も生まれて初めてという出来事が起きた。
「奇跡の人」伝説の始まりだった。ある日いつもの決まった量や種類の「たん」ではなく、おそらく長年にわたり気管にしぶとく張り付いていた古い「たん」が、長い長い数珠つなぎできれいに取れたのである。病理解剖に回されることになったが、医学会でも珍しい出来事だったらしく、病室に行くと、その話題で持ちきりだった。
そして、それ以来、母は今まで死ぬほど苦しんでいた発作から開放されることになる。今後はどうか分からないが、なんとこの16年、起きていないのだ。
今まで、古いたんの粘着性がひどく、気管をふさいでいたらしいのだ。想像するに、どんなに苦しいことだったろうか。
実は、気管切開した傷口は医師はもうしばらくそのままにし、そこからいろいろな検査などをしたかったらしいのだが、母がまだ年齢的に、傷が自発的にふさがろうとする力が強く、その後予定より早くだんだんとふさがれていった。
その前に「古いたん」が取り除かれたのは、神様のくれたご褒美だったといわざるを得ない。
それから、さらなるステップアップが・・・。喉の傷がだんだん良くなると、普通に声が出るようになったのである。
そのころ、私たちきょうだいや主人は父にいたずらをした。
母にしばらくまだしゃべれない演技をしてもらい、筆談をしていて、突然普通にしゃべって驚かせてみようというもの。
実は、父は一生まともにしゃべれなくなることもあると、覚悟していたのだ。
突然、普通に「それでさ~」と、話しだした母に父は目を丸くして驚いていた。
その後の回復は目覚しいものだった。しかし、寝たきりが続いたため、ほとんどの筋肉がなくなってしまい、歩くこともままならなくなったため、リハビリも行うことになった。眠りの世界に居る時、床ずれも起こしていて、当初それにわれわれが気付かなかったのが悔やまれた。母の親友で今年亡くなってしまったCおばさんが気付き、看護師を怒鳴りつけてくれたのだ。
看護師にとって、患者に床ずれを作ってしまうのは最悪の恥だとCおばさんに聞かされた。素晴らしい看護師さんたちだったが、見落としていたらしく、ひたすらわれわれにわびていた。
雪が降り、世間はクリスマス、大晦日、正月と楽しい時期。私たち家族はいつもとは違う年末年始になった。
母は、面会終了時間が来てわれわれが帰ることをやたら寂しがった。もともと末っ子気質で、わがままなところがある人。病気になると、人は一層甘えっこ、寂しがり屋になるものだ。毎回、なだめるのも大変だった。(続く)


【2007/11/02 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
マルセイユ村千秋楽を振り返る
パリ空
プチミュージアムで。おもしろかったですよね、月組「パリの空よりも高く」。


あらためて、村「アデュー・マルセイユ」の千秋楽について。
ショーも含めてですが、春野寿美礼というスターはたいしたものだと思ったのが正直な思いです。
公演期間中、風邪をひいていたこともあり、疲れもあって声の調子が悪いときもあったのに、この日は100%じゃないにしろ、調子を合わせてきたから・・・。
それに、感情の込め方も最高のできでした。
もちろん、きっちりやろうという気構えも見えて、一つひとつとにかくていねいでした。
「せっけんの発売は大丈夫なのか」もちゃんと言ったし!!
前、「工場の発売は大丈夫なのか」と言った時には、どうしようかと・・・。ジョジョさま、工場は発売しませんから!!
いつもそうですが、ビデオ撮りもあり、ショーも含めてみなアドリブは前楽ほどではないのですが、まとぶんだけは飛ばしていました。
それに花野じゅりあちゃんも連日がんばっていましたね。努力賞です。壮さん、まじ笑いしてました。
おさちゃんも壮さんとのからみはいつもいつもすごかった。握手した手をわざと離さなかったり、いろいろな小芝居をしていて。千秋楽も芝居を壊さない程度にいろいろやって、笑いを取ってました。
そういう余裕があるところがすごい。
客席はもちろん、物音ひとつせず舞台に集中。だから自分もより入り込めるから、前楽や楽の緊張感が私は好きです。
ましてや今回は、これでおさちゃんの大劇場での2枚目男役姿が最後だと思うと、出番すべてを見逃しはしないと必死でした。
下手から電話機を持ってせり上がる時も、少し前からスタンバイ。本舞台のみなさま、ごめんなさいという状態。
おさちゃんにしたら、怖いファンですよね。

「アデュー」という言葉、実はいまだに信じたくない気持ちがありますが、最後の「アデュー」は、なぜか寂しいだけではなく、優しく響きました。
この中途半端なじんわりせつない感・・・どうにかしてほしい。爆。


●ミニエッセー447「奇跡の人―生き返った母3」
それからが、本当の母にとっての「生との闘い」、私たち家族にとっての「ぜんそくとの闘い」が始まった。母と私たちが勝利するまでは、半年ちょっとかかった。
R病院は、偶然にも私の住むアパートのそばだったため、看護者の拠点として、合鍵をたくさん作り、家族・親類に開放することになった。
完全看護とは言え、いつどうなるか分からない状態だし、いろいろな連絡のためにも、必ず誰かが付き添う体制を取った(夜間は最初の数日だけ特別に認められたが、それからは規定通り通常の面会終了時間まで)。
父はみんなに「長丁場になるから、みんな交替で頑張ろう」と話した。父と私は職場に事情を話し、可能な限り休みを取った。
ほかの家族もみんな、毎日病院に通い、それぞれ様子を見たり、母の世話をした。
こういう時、その看護者のご飯や洗濯のことなど、2次看護ともいうべき体制も必要になる。さすがに皆仕事をしながら、学校に行きながらなので、親戚や知人の応援も頼んだ。
おじ、おば、母の友人など、みんなが交替で食事を作って持ってきてくれるなど、協力してくれたこと、危篤の時も少し良くなってからも見舞いにきてくれ、それぞれが本人や私たちを励ましてたことは、今でも心から感謝しているし、一生忘れられない喜びだった。
特にKおばさんやA選手は、毎週きてくれた。
母は本人がはっきり意識が戻るまでおよそ1カ月眠りの世界に居たが、その間、機械の呼吸量が多すぎて肺が破れ、臓器のあちらこちらに空気がもれて体が風船のようにふくらんで、あわてて手術したり、血圧が安定しなかったり、熱が出たり、いろいろなことがあった。
それでも「絶対良くなると信じるしかない、祈るしかない」と、私たちは母が完全に目覚めた時の、それから家に帰ってきてからの準備を始めた。
父は、気候や湿度のほか、自宅のたたみやじゅうたんなどの埃、ダニなどが原因かもしれないから、母の和室の寝室を洋室のフローリングに改造した。
われわれは、気管切開して自由にしゃべれなくなるだろうからと、あいうえおボードやホワイトボード、ペンなどをたくさん用意した。
私は知らなかったが、妹たちはお百度参りもしたらしい。
すがれる神があるならばなんでもすがりたかった。
私たち4人の子育てに追われ、末っ子のS子も間もなく巣立つ時。当時51歳の母は、やっとこれから自分の人生を楽しむはずなのだ。弟のお嫁さんや、S子の花嫁姿だって、孫だってまだ見ていない。孫たちがどんどん成長する姿もまだまだ見ていない。まだ私も何も親孝行していない。ここで病気に負けるようなわれわれ一家じゃないはず。
そうやって私たちは、日々疲労とも闘いつつ、多くの方たちの理解と協力を得ながら、希望を捨てないで過ごした。
そんなわれわれに最初のステップアップの日がついにやってきた。(続く)




【2007/11/01 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
北海道発・わっちさんの宝塚な日々


北海道の宝塚・ミュージカルフリーク。 現在は特に宝塚OG真琴つばささんが好きです。 北海道日本ハムファイターズも応援しています。 毎日更新しています。

プロフィール

わっちさん

Author:わっちさん
1964年生まれ。北海道在住。
1991年から宝塚ファンに。
大学職員・雑誌記者から
転身し、2010年4月より
美容アーチストとして
サロン経営をスタート。
ネイリスト・メイクアップ
アーチスト、カラーコーディネーター、
ライターです。

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