本日お江戸でござる
店前
マーノエマーノの店前。後姿は友人Mちゃんの娘、小学校3年だけれど背の高いMちー。

本日はマミさんのFCイベントのため日帰りで東京へ。
土・日、ゆっくりしたいところなのですが、明日は札幌でEXILEのコンサートがあるし・・・うへっ、忙しい~。
マミさんイベントのご報告は明日にします。
楽しみだよーーーん。
先月、ミュージカルで1列目を経験したから、当日抽選の席は今回はぜいたくは言うまい・・・


●ミニエッセー323「Kおばさん一家の武勇伝3・神様かKおばさんか③」
「うちのお母ちゃん(Kおばさん)、“A、これ食べてから行きなさい”って、何出したと思う?・・・ねこまんまごはんと煮干だよ。皿にばっーと、煮干入れてしょうゆかけてさ・・・」―それを聞いたわれわれ一家はお腹がよじれるほど笑い転げた。
やっとひとり娘が週末実家に帰ってきて、日曜夕刻に送り出すという時の食事としては、なんとも質素だ。昭和最後のころではあるが、まるで戦後すぐの光景のようだ。
Aちゃんが、1時間半ほど運転して戻るため、暗くならないうちに出発すると言っていたのに、Kおばさんはまだのんびりしていたようで、あわててとりあえず身近にある物を食卓に出したようだが、みそ汁の残りをかけたごはんと煮干って・・・ネコのごはんのようでもある。断っておくが、Kおばさんは受け狙いで、ギャグでそうしたのではない。真剣だったのである。
Aちゃんのことを私は「A選手」(高校時代バドミントン選手だったので)と呼んでいるが、「それで選手、食べたの」と泣き笑いで聞いた。A選手は、仕方ないから少し食べてから戻ってきたという。
私は、まさに天然なKおばさんの行動がおかしくもあり、その裏には、何も用意していなかったけど、娘にせめてごはんを食べていってもらいたいという愛情が見えて感激し、笑い泣きが止まらなかった。そして、すぐに家族新聞のネタにした。
そのおばさんのとにかくある物すべてを出してきて「食べさせる」もてなしは、今も変わらない。時々行くと、決して特別なごちそうではない家庭料理から腕によりをかけて作ってくれた物までいろいろとテーブルに並べてくれる。
私が数年前、出張の途中に寄った時は、これから食事付きの温泉ホテルに泊まりに行くというのに「わっちさん、お腹が空いたら食べな」と、大きなおにぎりを三つと漬物を持たせてくれた。ありがたくて、休憩スポットで食べながら涙が出た。私のお腹と心はKおばさんの愛で十二分に満たされた。
母の所に遊びに来る時も、Kおばさんはとにかくなんだかんだと作ってきたり買ったりして持ってきては、必ず「わっちさんにも、A子やS子(私の妹たち)にもあげて」と言うのだ。
駅前のパン屋さんで買ったパン一つを私にあげてといったものだから、少し離れていて、車も運転しない母が後で「夫婦にパン一つ持っていくのもなんだから、もらったことにしておいてAちゃん通じて御礼のメールでもしておいて。私が食べておくから」ということもあった。ちょっと笑ってしまったが、その気持ちだけは私には何よりもうれしく、高価なお土産だ。(続く)


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【2007/06/30 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(4)
あさき荷造り
デザート
昨日の続きで、とてもおいしかったデザートのキャラメル味のパンナコッタ。

今週末は出掛けるので、週明けに荷物を送るために来月7日のあさき初日の旅の荷造りを既に昨日やりました。
泊まりは1カ月以上ぶり。
やっぱりこれがなくっちゃね、私の人生は・・・。
来年からも、何かと旅は続けることになりそうな気がしています。


●ミニエッセー322「Kおばさん一家の武勇伝2・神様かKおばさんか②」
おばさんは「K子」だと、本人も家族も周りも皆50年以上信じていた。私もずっと「K子おばちゃん」と呼んでいた。第一、おばさんの母親(私の祖母)さえも生前はそう呼んでいた。
だが、戸籍上「子」がついていなく、ただの「K」だったのだ。昔は手書きの手作り台帳で、そんなことも多かったと聞く。
それまでも、例えば昔は子供たちの高校入学手続きなどで戸籍謄本や抄本が必要だったはずだ。見ていたのかもしれないけれど、おばさんは全然気付いていなかった。
おじさんの職場も「てきとう」だったということだ。いろいろな扶養者手続き、保険証なども長年「K子」でOKだったわけだ。
周りはとにかくびっくりの事実判明だったが、本人は「やーやー、参ったなぁ」と笑っていた。さすがだ。
それから、亡くなったMおじさんのことだが、「来年定年なんだ」と聞かされていた時、また衝撃の事実が判明した。
「わっちさん、あのなぁ、うちのお父ちゃん、今年度いっぱいで定年なんだって。会社が最初に生年月日を登録し間違えたらしい」
「えーーーーーーーーーー????」―私の母も含めてわれわれがのけぞって驚いたことは言うまでもない。しかも、あと数ケ月で年度が終るという時だ。人生設計が全く狂うではないか。
これにはさすがに一家はあわてていたが、しばらくするとおばさんは「やーやー、参ったなぁ」と笑っていた。さすがだ。
立派な家が建ち、息子のTちゃんにはいろいろあり、せっかくの家には雷が落ち、電化製品がすべてだめになった時も「やーやー、びっくりしたわ」・・・とにかく、一家はこんな調子なのである。
そして、おばさんの傑作エピソードは、以前家族新聞「愛の翼」について書いた時に述べた「涙の煮干物語」だ。第1回の年間のエピソードに編集長の私が賞を与える「愛の翼大賞」に輝いた伝説の事件である。もう20年も前のことになる。
Kおばさんの長女、私より4歳年上のいとこのAちゃんが、勤めていた会社を辞め、しばらく道央の私の実家に下宿していた時期がある。私たちきょうだいはまだみんな若く、私の結婚前だった。Aちゃんは旭川を離れ、私の父の職場・某支庁で臨時職員として働いていたのだ。
実家で一番広かった私の部屋の半分を提供し、楽しく暮らしていた。Aちゃんは、週末には自家用車で旭川に帰っていた。おばさんの涙と笑いのエピソードは、Aちゃんがわが家に戻った時の報告で明らかになった。(続く)

【2007/06/29 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
年度賞2006で
ピザ
メイン料理を選択できるランチセットのメインにした4種チーズのピザ。シンプルですが、おいしかったです。

<おすすめ!!>
プラスワン牛乳運動のHP内「ミルクギフトキャンペーン」で、北海道では通がうなる、大変おいしい乳製品(酪農家の手作りチーズやアイスクリームなど)ギフトの通販を行っています。私も頼んでみました~楽しみ~
自分で食べるのもよし、身近な人へプレゼントするのもよし、のぞくだけでもぜひどうぞ→http://www.plus1milk.com/

CSでやっていた2006年度の年度賞の様子。優秀賞のおさちゃんとゆみこちゃんが並んでの記念写真撮影。もうこんな姿は見られない・・・。なんだかじーんとしてしまいました。
おさちゃん、ゆみこちゃんはじめ、受賞された皆さんおめでとうございます。
でも、いつも思うんですが、賞決まるの遅くない???
わっちさんのヅカノートの世界では賞関係が決まるのは早いけどね・・・爆。


●ミニエッセー321「Kおばさん一家の武勇伝1・神様かKおばさんか①」
母の姉の1人で、私が敬愛する旭川在住の伯母、Kおばさん一家の涙と笑いの物語にお付き合い願いたい。シリーズは主人公ごとに区切ろうと思っている。
まずは、一家の中心であるKおばさんの話だ。
Kおばさんは、今年で70歳になった。目のぱっちりした美人で、今は恰幅が良いが、若い時はスタイルも良く、昔の写真はモデルさんのようだ。
Kおばさんと結婚できなければ死ぬと言って強引に結婚したという酒好きのご主人(Mおじさん)は11年前に病気で亡くなったが、私のいとこたちにあたる長女・Aちゃんとそのご主人Fさん、そしてAちゃんの弟・長男のTちゃんと4人で暮らしている。
Tちゃんは、おじさんが亡くなる少し前まで妻子がいて、一緒に暮らしていたが、残念ながら離婚して奥さんと息子つまりKおばさんの孫は出て行った。
Kおばさんには唯一の孫であるこの青年だが、今でも事あるごとにおばあちゃんと元パパの家に遊びに来る。新しいお父さんやきょうだいたちがいるにも関わらずだ。また、新しい家庭でもそれを認めている。たまたま会えば私たちとも気兼ねなく話す。普通はなかなかそうならないだろう。
いろいろ複雑な環境でも彼が曲がらずに育ったのは、一緒に暮らしていたおばあちゃんや伯母さんの愛情が深かったからに違いない。ちなみに元パパは照れくさいようで、会ってもあまり言葉は交わさない。
息子夫婦が離婚し、おじさんも亡くなり、しばらくはKおばさんの家は寂しかったが、長女のAちゃんが結婚し、養子ではないのだが、そのだんなさん・Fさんが一緒に住むことになったのも、常にポジティブシンキングで、どんな人にも平等に愛を注ぐ神様のようなKおばさんの人柄にほかならない。
一家は皆、紛れもなく苦労人だ。それぞれが勤めた先の倒産なども何度もあった。おばさん自身は若い時から体が弱く、今まで大きな手術もかなり経験している。それでも調子の良い時は、アルバイトもしていた頑張り屋だ。
やっと子供2人が社会人になって落ち着いてきて、パルプ工場に勤めていたおじさんの定年も見え始めたころ、念願の家を建てることになったのだが、一家のずっこけ話・・・いや、武勇伝はこのあたりから増えていった。
さて、Kおばさん。ローンなどの試算もあるので、今問題になっている年金の手続きのことなどで早めに役所に行って、重大な事実に気付く。
「わっちさん、あのなぁ、ワシ、役所に行ったら自分の名前が違ったさ」―Kおばさんはいつもの調子で、のんびりゆったりそう言った。(続く)

【2007/06/28 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
月組さんチケットゲット
てーぶる
昨日の続きで、マーノさんのテーブルの一角。かわいい~

CSで「あさき」稽古場レポ観て、少しずつテンション復活してきました。おさちゃん本当にすっきりしてるなぁ。

ところで、TCAにからめて観る月組さんのチケットをゲット。1枚は友会でなかなかの席が当たりました。わーい。
いつもとは変わった感じの公演になりそうなので、楽しみです。
心がTCAとうまく切り替えできたら良いのですが・・・


●ミニエッセー320「好きなセリフの言い方」
これも挙げたらキリがないが、近年の作品からあえて挙げるとしたら、2005年花組の「落陽のパレルモ」からになる。とにかく「セリフの言い方」が素晴らしくて、いつもそこで涙が出てきていた。
彩吹さん演じるヴィットリオの祖母(春野さん演じる主人公の娘)演じる梨花ますみ(副組長)さんが、亡命する孫とその結婚相手である遠野さん演じるジュリエッタが旅立つ時に言った「幸せにおなりなさい・・・必ず・・・」。
これは、何度観ても素晴らしい。本当に役になりきっていて、自然な情感があふれていて、梨花さんはいつも涙を流して言っていた。
スミレコードにひっかかる話だが、梨花さんの実年齢は私よりたった4歳上で、主人と同じなのだが、あそこまで老け役を見事にこなすのには感心してしまう。
また、車椅子の役が多いが、子供のころ車椅子生活を経験した私からしても、あまりにもさばき方が巧みである。
ただ、表情が豊かというタイプの方ではないので、それまではいつも同じ雰囲気に見えがちだった。
しかし、この時は少し頑固な当主としての威厳や1人の祖母として、孫を愛する優しく温かい気持ちが、白髪のビジュアルにも演技にもうまい具合に出ており、そのセリフは絶品だった。ベテランにしかできない演技だった。
この芝居では、本編の春野さんたちの時代のことを子孫である彩吹さんが昔から聞き伝わっている話を思い出して恋人に語っているという形式なのだが、彩吹さんチームは、そんなに出番が多いわけではないのに、よくぞあそこまで感情をちゃんとつなげて、最後まで持っていったと、その部分でも恐れ入っていた。
私は実生活では子供も、もちろん孫もいないが、妹たちや甥っ子たちに対して、あるいは友人たちやタカラジェンヌに対しても、何かにつけてとにかく「幸せを祈る」という気持ちが先に立つので、痛いくらいにその場面でのおばあさまの心のうちが分かって、毎回涙を禁じえなかったというのもある。
このことは、春野さんへの手紙にも書いた覚えがある。
ついでに言えば、ジュリエッタがユダヤ人と知って最初は素直に認めなかったが、孫の子供を妊娠していると分かり、自分の子孫ともなる新しい命をいとおしみ、また孫が選んだ女性としても愛情を持って「体、大事にね」と優しく言ったのにもぐっときた。
そして、その後の彩吹さんと遠野さんの演技も最高だった。
またこんなふうに心に響く場面に出会いたいと思っている。


【2007/06/27 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
日程確定、村の旅
テラス
北海道栗山町のイタリアンレストラン「マーノ・エ・マーノ」のテラス席。虫が多いので、私はまだここでは食べていません。

さよなら公演の村の旅、日程を確定させ、手配表を作りました。
4往復、12回観劇(うち1往復2公演は主人と)&ゆみこちゃんのドラマシティを2回。
そのうち2公演はチケットを既に確保してます。
ホテルはほとんど抑えてあります。

とにかく思い出をたくさん作りたいです。


●ミニエッセー319「好きなセリフ」
宝塚の舞台に出てくるセリフで好きなフレーズは幾つかあるが、最も好きなもの。それは今まで病気と健康のことを述べていたが、それにも少し関連する。
「人はどれだけ生きたかではなく、どのように生きたかが大切」―それが正確な言葉ではないが、土方歳三を主人公にした星組「誠の群像」で絵麻緒ゆうさんが演じる沖田総司が、総司は肺結核だからみんなに養生しろと言われても、自分は精一杯みんなとともに戦うと、死期が近いことをなんとなく悟って発したセリフだ。
残念ながら病いや事故で若くして失われる命がある。しかし、その人生が短かったからという理由だけで、残念な人生だったなどということにはならない。たとえ、1日、いや数時間の今生での生だったとしても、本人は愛によって生まれ、精一杯生きたのだし、家族の思いは限りないものだ。
そりやぁ、健康で長生きするというのは素晴らしいことだ。しかし、たとえ若い時に命の灯が尽きても、それが悔いのない精一杯の良い人生だったと言えるかどうかは、それまでどのように生きたかにかかわってくる。
人の明日はどうなるか分からない。生き物はみんなそうである。せっかく生を受けたのだから、もったいなく過ごすのではなく、1日1日を自分なりに懸命に生き、日々輝くことができれば、つまりは良い一生だったと自分自身が最も納得がいく。
また、普段からそんなふうに生きていることを周りにも気付いてもらえていたのなら、万一の時でも残された人たちも悲しまずに、きっと納得できる。
と、常々思っていたので、このセリフを聞いた時は「まったくその通り」と感じ、「心に残るセリフ」としてCSの「こだわりアラカルト」という番組で募集があった時に応募し、見事に理由までその通り採用された。きっと、ほかにも同じようにリクエストした人が多かったのだろう。
要するに、自分の理想の生き方を表していたということである。
そういう点では、「ベルサイユのばら」のオスカルの生き方も同じで、あこがれる。男性だから、女性だからということよりも、1人の人間として、自分が信じた道をまっすぐ進んだ―。
革命の渦に飛び込もうが飛び込まないが、結核か何かでオスカルの命はあとわずかだった。本人は何となく気付いていた。それならば、貴族である身分を捨て、市民を守るのが自分の役目と、オスカルは戦火の中心へ向かった。
設定ではオスカルのその時の年齢は30代半ば。本来なら、まだまだ先があった。しかし、家族も家族同然のばあやも、召し使いでオスカルを恋愛的に慕うロザリーもオスカルの短命を悟っていたから、オスカルの生きたいようにと、心を鬼にして見送ったのだ。
オスカルは敵の砲弾に倒れ、やっぱり死を覚悟でついてきて少し前に天国へ行った愛するアンドレの元へ召された。
オスカルを愛していた多くの者が悲しみ嘆いたが、彼女の生き方には誰しもが納得したことだろう。
アニメ版ではオスカルとアンドレが死んだ後もしばらく物語が続き、そしてまた最後の最後で、衛兵隊員のリーダーとして、オスカル隊長を慕い、共に戦い生き残ったアランが登場し、当時を振り返り「オスカルもアランも幸せだったよ。それからの混乱を見なくて済んだんだし・・・」というようなことを言うのだが、そこであらためてオスカルとアンドレの生き方と死について、視聴者(ファン)の私もしみじみ振り返ったのを覚えている。
あくまでも、オスカルとアンドレは架空の人物だが、その魂は私のよりどころになっている。
【2007/06/26 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
阪急交通社プラン、どうかな
もろた
友人の娘さんMちーにいただいた手作りのプレゼント。振るとシャラシャラと音がする芸術品です

村の次回花組公演、阪急交通社名古屋支店のホテルプランなどに申し込んでみました。
席番号が当日まで分からないので、せっかくのさよなら公演にどうかな・・・とも思ったのですが、早くにチケットが確保できるという点が利点なので、いろいろ悩んだ末に数公演頼んでみました。
また、阪急交通社貸切公演も行く予定です。
そのうち、申し込み内容確認のためにいただいた電話(違うホテルでもいいかと聞かれた)で、1公演は確実に取れたことが分かっちゃいました。うしし。
果たして、ほかの結果は・・・???


●ミニエッセー318「病気の話15・健康への意識」
私は今まで述べた以外にも、ちょこちょこと病いや怪我を経験しているので、誰よりも健康への意識は強い。健康であることが人生最大の幸せだということをよく知っている。
自分の体は自分で守るしかない。特に私は、観劇を趣味とし、しかも地元ではなく、本州開催のものへ駆けつけるのがほとんどなわけで、給料と休みのほとんどを旅に注いでいる生活なので、体調管理はタカラジェンヌ並みに大切だ。
ただ、「わっちさんは本当にスーパーウルトラタフだよね」などと言われる私が実際に普段心掛けていることは、そんなにたいしたことではない。また、反省しなければならないことも多い。病気の話シリーズの最後に、そんなことを紹介したい。
毎日欠かさずしていることは、どんな近所への外出であっても帰ったら必ず手洗いとうがいをすることだ。手洗いはせっけんで、うがいは水でである。喉の調子が悪い時だけ、うがい薬を入れるが、これはやりすぎると自然な浄化力が落ちる気がするので、よほど喉の痛みがひどい時以外は入れすぎに注意している。
風邪が流行していたり、実際風邪をひいている人がそばにいれば、マスクをして防御する。
あとは、食事の栄養バランスである。綿密にきちんと考えて食べているわけではないが、炭水化物・タンパク質・ビタミン・カルシウム・鉄分などとにかく偏らないことだ。また、必ず毎日何らかの乳製品を取るようにしている。
ダイエット面からもカロリーの取りすぎには注意しているが、ただ旅で動き回るためには、エネルギー不足は疲れに通じるのでやっぱり「適度」が大切だ。
なお、飲み物は95%ノーカロリーのお茶類だが、疲れを感じる時などにレモンやゆず味のカロリーのあるものを飲む。また、旅が続いて体力が落ち、風邪をひきそうだと感じた時だけ栄養ドリンクの類を飲む。サプリメントは、目のためのブルーベリーだけ。ダイエット用云々というのを摂取していたこともあったが、まったく効果はなかった。
あれも良い、これも良いという情報操作には踊らされないように気を付けている。何を取るか取らないかということよりも、本来大切なのは正常な排泄、新陳代謝の良さではないだろうか。人には恒常機能が備わっているから、自然なデトックスができることが理想なのだ。なるべくそこを心掛けるようにしている。
酒とタバコをやらないせいか、肝臓は丈夫で、肌がきれいなことは自慢だ。
それから、とにかく体を冷やさないことと、薬の服用は必要最低限にしている。
さて、ここからは反省だ。
朝食を取らない、食べ物をほとんどかまないし早食い、運動をしない、普段車生活であまり歩かない、寝不足がち、公私共にパソコンのやりすぎで目と手、肩などを酷使している、和食よりどうしても洋食に走る、あまり汗をかかない、座ると足を組んでしまう(どうも足を組んでしまうのは、体のバランスが良くな証拠らしい)、かなりひどくなるまで病院になかなか行かない―などを少しでも改善し、健康な壮年期を過ごしたいと思っている。
しかし、病気ばかりしていた子供のころから比べると、私はかなり健康体になった。きっと、理解ある配偶者のおかげで情熱を傾けられる趣味があるからだろう。




【2007/06/25 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
手が震えた
まーぶる
春にうちの庭に咲くチューリップで、最も美人なこの子。名前はマーブルちゃん。

昨日は3姉妹の会を開催。イタめし・しいたけ狩り・カラオケと、なんとも言えないコースで遊びまくりました~。

ところで、友の会のチケット申し込みの電話かけ用や旅の手配のオリジナルフォームを準備していて、次回花組大劇場の分を書く時、タイトルを書くのに手が震えました・・・。
書きたくなかったな・・・「アデュー」なんて・・・


●ミニエッセー317「病気の話14・子宮筋腫⑩」
「子宮筋腫」についての最後に、経験者としてすべての女性のみなさんやその周囲の方々に向けてのメッセージを書きたい。
妊娠以外で婦人科に行くというのは、なかなか勇気がいるかもしれない。特に独身女性は。しかし、少しでも異常や不安を感じたら、たとえそれが勘違いであってもいいから、手術の道を選ばざるを得なかったという点で手遅れ状態だったと言える私の経験を思い出し、勇気を出して検査に行ってほしい。
私の場合、悪性ではなかったので筋腫と腹膜との癒着などによる腹部の不快な違和感や腰痛・背痛・足の付け根の痛み、歩行のしずらさ、トイレの近さ、子宮内膜症・・・それらに我慢して手術しないで過ごす、またはホルモン療法をするなどの選択もあったが、自分の「家庭を持って働きながら宝塚な日々にかける」生き方には子宮摘出が最善だった。
だが、症状や年齢や生活環境、将来展望によって、道はいろいろとあると思うので、決して恐れずにまずは病院に行ってほしい。
評判の良い女医さんを探すなどして、事前に納得して行けば、それこそ「案ずるより産むが易し」で、案外そんなに恥ずかしかったりすることもない。医者も看護師もプロであるから、患者の悩みや苦しみは理解していることだろう。
情報化社会の今は、こうしたネットによる経験者の報告や、いろいろなサイトがあるから、自分でよく調べることは悪いことではないが、あまりいろいろと見すぎて、かえって不安になることもある。
そういう時、一番おすすめなのは、やっぱり身近な経験者に話を聞くことだ。症状の違いなどはあるけれど、私はとにかくそれが最も参考になったし、勇気をもらった。
それから、私は一発で信頼できる病院に行ったから良かったが、「セカンドオピニオン」―別の病院でも診てもらって、もし医師の判断や説明、治療方針などの違いがあったら、自分でそれを取捨選択するというのも、大切なことだと考える。セカンドどころか、サードもあっていい。
いずれにしても自分や家族が納得し、精神面をクリアして通院や手術を受けることが重要だ。これは病気全般に言えることだが、人間は体の調子の悪い時、不安から心の調子も悪くなりがちだ。心と体はつながっている。せっかく、体を治療しても心の具合が悪ければ、良くなるはずの体も良くならない。逆に言えば心の力で体も良くなることもある。専門家でないので詳しくは分からないが、心の健康は免疫機能などに関係する気がする。
私の場合、3時間の開腹手術をしたとはとても思えないほど、周りのみんなが驚く回復ぶりだった。それも、早く元気になって大好きな春野さんの公演を観に行くという目標や、支えてくれ、帰りを待っていてくれるたくさんの家族や仲間の愛があったおかげで、穏やかな精神を保つことができたせいだろう。
周りに体の悩みを抱える人がいるという方へ。どんな形であっても、どんな小さな励ましや応援でも、当事者にとっては大きな支えになるので過剰な同情はせず、温かくいたわってあげていただきたい。
そして、女性の婦人科系の病気の場合は、いろいろ繊細な問題が含まれているので、そういう女性には「結婚する・しない」「子供を産む・産まない」「太った・やせた」などに突っ込みを入れたりせず、その1人の「人間」の選んだ生き方を尊重して、応援してあげてほしい。
なお、もしも子宮筋腫の手術などで悩んでいる方がいたら、できる範囲で相談に乗るので、どんどん気軽にコメント欄をクリックしてコメント(当ブログ管理人の私にのみ見せる方法も可能)していただきたい。(続く)




【2007/06/24 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(4)
暁のローマ
すみれ
5/18わが家の道路っぷちにやっと咲いた“すみれ”・・・。

昨年度の大作品で唯一、観ていなかった月組の「暁のローマ/レビジューブリアン」のDVDを職場のFさんに借りて観ました。
明智の旅に持って行っていて、ショーは旅の間に観ていましたが、芝居を観る時間がなかなかなく、やっと先日観れました。

歌詞がいちいち「どきっ」としましたね。誰それが偉い、誰それは国のことを考えているとか・・・。配役的に、なんとも複雑でした。
「大きいわぁ、大物よ」って・・・昔の何かのCMそのままやん。笑
曲のメロディーは全体的に「不滅の棘」に似ていましたね。
あさこさん、ひたすらかっこえがったぁー。なんか、時々マミさんを思い出す雰囲気がありました。
ゆうひちゃんもとっても素敵でした。

なお、ショーは昨年札幌公演で見たあさこさん主役版のほうの構成がすっきりして良かった気がしました。


●ミニエッセー316「病気の話13・子宮筋腫⑨」
手術から4カ月経ったころには、長丁場での運転による取材出張もこなせるようになっていた。やっと傷を気にせずに公共の温泉にも行けるようになったが、まだまだ傷は赤みがあり、結構グロテスクな感じだった。
今は、2年と3カ月過ぎ、かなり傷の赤みが消えた。が、一応毎日のようにチェックしている。
腰痛や背痛は嘘のように皆無になり、入り・出待ちのスクワットも普通の足の張り以外はつらくなくなった。おりものもない。
当然、楽でしかたがないことに生理はないわけだが、卵巣が残っているため、排卵(自然消滅)はあるので、月に一度はなんとなくおなかや胸の張りを感じることがある。
あとは、気温や気圧の変化により傷がずきんとすることはいまだにある。それは皮膚表面のことだろう。
そして、退院して3カ月くらいしてから少しずつ太りだした。子宮摘出手術をしたからそうなのか、年齢のせいかどうか断言できないが、臓器がなくなった分、最初はえぐれていたおなかを体は自然と内臓を守ろうとしてか脂肪をつける。また、生理がない体を体自身がもう中年と判断するのか、中年体型になってきたと感じる。
ただ、たまに行くサロンの整体師さんは、「そうであっても、やせることはできる」と言っているので、努力したいと思っている。
要するに、傷の突っ張り感を気にしてあまり運動をしなくなったから太ったのかもしれない。
ところで、子宮がないということを全く気にしない、寂しくないと言ったら嘘になる。「女性は子宮で考える」なんと言葉を聞くと少し悲しくなる。私には考える子宮がないんだけどな・・・と。
また仕方ないが、何も知らない人に「まあ、お子さんいないの。これからでも産んでみたら。きっと、大丈夫よ」と言われるたびに、ちょっとつらい。なるべく明るく「私は子宮がないから無理」と答えたりもするが、そういう質問が出るのが嫌なので、見知らぬ人と個人的な話をするのがますます苦手になった。
健康な人は最後まで直接見ることがない自分の子宮。見てみたかったという気持ちもあるが、摘出物の家族確認として、それに対面したのは、主人と母だけだった。後で絵で説明してもらって想像はついた。自分の子宮に対し、長い間筋腫に気付かなかったために別れることになってしまったと、申し訳ない気持ちがある。
なお、ありがたいことに摘出物の病理解剖の結果は、いずれも悪性腫瘍ではなかった。
しかし、悪性腫瘍と言えば、退院後半年してショックなことがあった。入院後半はまた最初の6人部屋に戻ったのだが、そこで唯一私より若く、卵巣がんだったCさんが亡くなったのだ。冥福を祈るとともに、雑誌を貸し借りしたり、お菓子を分け合ったりしていたことが鮮明によみがえってきて悲しかった。
それから、先に退院する私を笑顔で見送ってくれたほかの人たちのことも思い出した。皆さん、調子はどうなのだろうか・・・。
Cさんは、享年30歳。祖母と母親の女3人暮らしで、本人はもちろん、残された家族の無念を考えれば、私は彼女の分まで前向きに生きなければと今も思っている。(続く)
【2007/06/23 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(4)
その日々のためのコンタクト
とんかつ
おいしかった羽田空港の「空弁」―とんかつ弁当。

先日、1日使い捨てソフトコンタクトレンズの在庫が数少なくなってきたので、3年ぶりに眼科&コンタクト屋さんに行きました。
今までは疲れないようにと視力を両方とも1.0くらいに抑えた度数のレンズでしたが、これからはとにかく少しでもよく見えることを優先し、視力1.2まで上げました。
特に左目の視力と乱視状態が極端にひどいわっちさん。今、乱視用の使い捨てレンズもあり、3年前もそうだったのですが、それを左に入れるとどうしても両目で焦点を合わせるのが難しくなるので、近視矯正しかしていません。
右目は若干乱視もありますが、乱視用レンズにするまでもないというので、とにかく両目のバランスが難しい困った人なんです。
コンタクトレンズはメガネとは違い、微妙な矯正はできないんですよね・・・とほほ。
度数を決定するまで、いつもの3倍時間をかけました。
だって・・・今度ばかりは絶対妥協できないから・・・。
観劇時はオペラのことを考え、常にコンタクトですが、乱視(つまり1本の線が何重にも見えるような)状態は矯正されないため、くっきりした輪郭のおさちゃんを見るためには少しばかり目を細めている次第です。


●ミニエッセー315「病気の話12・子宮筋腫⑧」
退院して家に帰った時、まだ重い物を持てず、自由に動けない私のために、居間の家具などが主人によって配置替えされており、身の回りの必要な物を座ったままでも取れるようにしてくれていた。感謝である。
ちなみに、退院してから病院に行ったのは、術後検診の時だけで、最後の痛み止めの薬をもらった。そのころは、いよいよ花組初日へ飛ぶという少し前。とても「飛行機に乗って良いか」などとは聞けなかった。だめでも行くので、聞く意味がないからだ。
傷の治りは相変わらず遅い方だったが、もうかなり自由に動けるようになっていたので、私は家族や友人たちの心配をよそに、張り切って村へ出掛けた。職場の部署には内緒にしていた。まだ半日勤務期間中の金~日曜だったが、「飛行機に乗るなんて」と心配をかけそうだったからだ。
ただ、自分で心配だったのが気圧だ。飛行機で上空に行ったら、傷が痛むかも・・・と思っていた。しかし、わくわく感が勝っていたせいか、全然なんでもなくて、拍子抜けした。
初日には来なかった友人のNつんは、その日村にいる仲間たちに「わっちさんが具合が悪そうだったら助けてあげて」とメールしてくれていたようで、ばったり出会ったその仲間の1人に「あら、大丈夫なのね」と驚かれた。Nつんには、本当に心配をかけた。
村で待ち合わせたAさんにも、「予想はしていたが、それ以上に元気で安心した」と言ってもらった。Aさんにもいろいろと支えていただいた。
そうして観ることができた花組「マラケシュ・紅の墓標/エンター・ザ・レビュー」の初日がどれほど感慨深かったかは、ここで詳しく書かなくても分かっていただけると思う。
ショーのフィナーレのおさちゃんが歌う「愛しかない時」は涙なしには観れなかったし、今でも観たり聞いたりすると当時のことをいろいろ思い出して涙が出る。
それが、昨年の全国ツアーに続き、先日のディナー(ランチ)ショーのこと。アレンジが違う「愛しかない時」をおさちゃんが歌ったものだから、また思い出してしまった。でも、今度は目が曇るのがもったいないから、泣かないで観た。
マラケシュ初日から数回観て北海道に帰ってきて、新千歳空港で電車に間に合わなくなりそうになり、手術後初めて全速力で走ってしまった。まだ走ってはいけなかったのだが・・・。電車は間に合ったが、やばい事態に陥った。傷(特に内部)が、涙が出るほど痛み出したのである。それでも、家に着くまでにはなんとかおさまった。
それを話すと、退院祝いに「すみれ」色の豪華な花を贈ってくれたNつんには「爆走わっちさんもいいかげんにしてくださいよっ」と叱られた。
ともあれ、また旅ができるようになった。手術から1カ月も経っていなかったのに、われながら素晴らしい気力と体力だった。
それですっかり自信がついて、4月中旬に再び村1往復、同月下旬には主人と東京に行き、やっと月組「エリザベート」や劇団四季「オペラ座の怪人」、そしてマミさんのクラッシックコンサートを観て、5月上旬にはまた村へ行き花組千秋楽を観たのである。
もちろん、まだ傷が時々ずきずきしたり、疲れやすかったり(特にずっと立って歩くこと)があったので、無理はしないようにしていた。(続く)

【2007/06/22 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
最後じゃなかった!
さくら
今年の春、桜の写真これしか撮らなかった・・・。

今年7月に5周年を迎え、6年目に入るCSことタカラヅカスカイステージ。
マミさんがそれを機にスーパーバイザーを降りると聞いていたので、毎月1日に更新になるCSのホームページのコラム、てっきり今月で最後と思っていたわっちさん。
しかし、よく読んだらあと1回、来月も書く上に、9月のTCAスペシャルまではスーパーバイザーなんですもんね。
しかもTCA東京では「総合司会」やて。
そんな大事な「締め」を生で観に行けずにごめんなさい・・・


●ミニエッセー314「病気の話11・子宮筋腫⑦」
手術後当初の、病院での日課はこんな感じだった。
朝6時台に起床、洗顔。朝7時検温、血圧測定、前日自分で調べたトイレ回数と出血量(退院するころにはほとんどなし)を告げる。何回か尿検査もあった。
朝7時半朝食。歯磨き。手術から2日経って染髪OK、3日経ってシャワーOKになったので、朝食後にシャワー後、傷口の消毒をしてもらう。
午前10時回診。それから昼食までは、散歩、売店での買い物、歩行訓練、病院のロビーで新聞読み。テレビを観たり本や漫画を読んだり、ロジック解きをしたりする。
正午に昼食後はまた自由で、午後2時に検温。その後は家族や見舞いのお客さんと面談したり、静養したり、また動いたり。
午後6時夕食時には仕事を終えた妹のS子や主人が、洗濯物や家へ届いた郵便物を運んできてくれ、食事の片付けも手伝ってくれた。
午後7時、最終検温。そして歯磨きや洗顔をしてテレビを観て、9時消灯。
昼間は何かと忙しいが、それからは長いのなんの。深夜0時ころに看護師が見回りに来るが、たいてい寝たふりをしていた。寝付くまで音楽(宝塚CDなど)を聴いたり、ふとんにもぐって友人たちにメールしたりしていた。
なお、午後9時からはベッド周りにカーテンを引くので、まったく1人の時間になる。看護師さんが来ない時間帯には、コンセントに携帯電話の充電器をつなぎ、よく携帯電話を充電していた。
抜糸(ただ、傷は大きなホチキスで無造作にとめてあり、正式には、“抜鉤=ばっこう”と言う)してから、私の肌質から傷がケロイド状になり、ちょっと治りが遅くて焦った。
思ったより傷は短く、おへその5センチ下から縦に10センチくらいだったのだが、かなり突っ張り感があるというのは予想外だったので、ショックで泣けた夜もあった。
しかし、私には泣いている暇などない、絶対元気に動けるようになって、おさちゃんに会いに行くのだと、気を取り直した。
短い期間だったのに、ありがたいことに職場の仲間や上司、友人や知人たちが連日たくさんお見舞いに来てくれた。それから、宝塚仲間たちが宝塚グッズを送ってくれたりして励ましてくれた。メールや手紙ももらった。それらのことが何より支えだった。
こうした家族や仲間たちの応援なしには、とても前向きに過ごせなかったことだろう。
いつも病院の窓からハンバーガーショップが見え、「食べたいな」と言っていた私のために、かなり良くなってから甥っ子が少ないおこづかいから買って持ってきてくれたり、ひな祭りには義弟が食べきれないほどのケーキを買ってきてくれたり、S子がアロマセラピストの友人を連れてきて、注射で疲れた腕のマッサージをしてくれたり、そのほかにも人の温かい気持ちにたくさん触れる機会にもなった。
手術から1週間経ち、検査が行われ、「2005年3月7日に退院して良い」という許可が出た。ただ、傷はまだ完全にふさがっていないため、絶対無理をしないようにと釘をさされた。歩行も外出も徐々に時間を増やすようにし、仕事は4月以降に、運転はまだしばらく後にとのことだった。
が、私としては早く旅に耐えられるように、多少傷が醜くなったとしても、なるべく早く普通に荷物を持って歩けるようにする覚悟で、退院数日後から少しずつ歩いて外出するようにし、また当初の計画通り、仕事は退院から2週間後に半日勤務を始めた。(続く)

【2007/06/21 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
春野さん手書きの退団挨拶状
風船
先月の母の日に母に贈った風船に入ったカーネーションのアレンジメント。結構もっていたようです。

退団発表記者会見の翌日に届いたおさちゃんからのFC経由の退団挨拶状。
肌色に近いピンク色で、すっかりなじみになったおさちゃん独特の文字・・・そう、手書きでした。
もちろん、印刷ですが、嬉しかったです。
(私が以前FCに入っていた生徒さんは手書きではありませんでした)

そして、もちろん、寂しかったです。
封を開けるまで、少し時間がかかりました・・・。

公式発表の日には発送されていた。ということは、印刷はいつしたのかな・・・。
当然のことながら、発送作業の都合上、東西FCのスタッフ(あるいはその一部)の方は早くから知っていただろうから、そのころ―DSの時、思いもいろいろだったことだろうなと察しています。
本当にご苦労様と申し上げたいです。
そのFCからの挨拶状も同封されていました。
いつもどおりに楽しく活動しましょうという趣旨・・・その裏には力をふりしぼっている気持ちが見え、涙が出ました。

さまざまな個人的なことを犠牲にして頑張ってきたであろうFCスタッフさんたちのラストスパートをも、微力ながら自分なりに支えたいと思っています。


●ミニエッセー313「病気の話10・子宮筋腫⑥」
手術から一夜明けて、朝早くからベッドで起き上がらされて、着替えさせられた。その時初めて看護師さんに蒸しタオルでの体拭きをしてもらい、とても気持ちが良かった。
そして、もう立ち上がってみろというから、過酷なもんだ。しかし、立ち上がり、歩行できるのが早ければ早いほど回復が早いと聞いていたし、イコール花組初日の道が近いと思い、もちろん吐き気もめまいも傷の痛みも微熱もあったが、主人に支えられて頑張って立ってみた。なんとか立てた。
「それでは、管をはずしますね」―そう言われて気付いたが、尿道に管をさしこまれていて、その間は、排尿の感覚が全くないものなのだ。抜く時は、少し痛みが走ったが、立ってトイレに行けることは幸せなことだと気付かされた。
それからトイレや歯を磨くために洗面所まで自力で歩いて行った。自分としては超ゆっくりしか歩けないし、どうしてもおなかに力が入れられず、前のめりでとても変な格好だったのだが、それを見た元の病室の仲間たちが「ちょっとぉ、大丈夫?ゆうべ手術で、もうそんなに普通に歩いてる人って見たことないよ」と、驚いていた。
しかし、吐き気だけは治まらず、ほとんどお湯のような重湯などの昼食が出たのだが、まったく口にできなかった。それを聞きつけて医師が心配して来てくれて、急遽その場でレントゲンを撮ることになった。
すると、腸にガスがたまり腸が胃を圧迫していたのが、なかなかおさまらない吐き気の原因だった。おなかに力が入らないため、ガスが出しにくいのだ。とにかく少しでも歩いて動き、自然にガスを出すしかなく、やっと夕方までには解決できた。
夜はまる2日ぶりに食事ができた。重湯と牛乳とそうめん3本入りの味噌汁だけだったが、とてもおいしかった。しばらくは刺激物や固形物は禁止で、少しずつ普通の食事になっていった。
しかし、人間ってすごい。日一日と確かに回復していくものだ。
なんとか自力で動けるようになり、当初は体の向きを変えることだけには時間が必要だった。それでも、なるべく寝たきりにならず、ベッドでは常に起き上がって座り、毎日、散歩や階段を上り下りして歩行訓練をした。とにかく動かないでいると内部の傷口がほかの臓器に癒着してしまうのだ。
手術から2、3日目の夜は今度は吐き気ではなく、傷の痛みがひどくなり、朝まで何度か痛み止めの注射をしてもらった。その後はだいぶん楽になり、飲み薬と点滴だけになった。
退院する数日前まで、昼間は感染症予防や痛み止めの点滴があった。また、自力でなかなか便が排出できず、便秘薬を飲まされたのはちょっと苦しいことだった。
手術から2日たった最初の日曜には他部署だが職場の先輩でヅカ仲間のEさんが、たくさんのお見舞いや差し入れを持って来てくれた。その時、私はけろっとしてベッドに座っていたから、Eさんはびっくりしたという。まだ痛くてうなって寝ているのだろうと想像していたようだ。
「だってわっちとしては、絶対花組初日に行くし・・・」と、ゆっくりだが歩く姿を見せたら、Eさんは安心し、笑ってくれた。(続く)

【2007/06/20 00:15】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(6)
TCAオール観劇を目指して
チューリップ
春に咲いたわが家の庭のチューリップ。赤もあったんですけどね・・・。

当初は、TCA土曜だけを観に行く心づもりでしたが、もうもうもうもうもう・・・3回全部行くっ!!

絶対行く!!!!!

月組さんも観る!!!!

・・・ホテルは取ったし、飛行機も先行予約したし・・・爆


●ミニエッセー312「病気の話9・子宮筋腫⑤」
入院2日目は麻酔科での血圧検査と体格チェック、問診があり、部分麻酔と睡眠剤での手術と決まった。剃毛もあった(これはなかなかすごい体験だ・・・)。午後6時の夕食後は翌日の手術に備えて水以外一切何も口にできなくなった。
でも告白すると、午後8時くらいにどうしても味の付いたものを飲みたくなり、レモンジュースを飲んだ。不良患者だ。
ベッドの脇にはテレビと共通のプリペイドカード式個人冷蔵庫があり、家族が食いしん坊の私のためにいろいろな物を買って入れてくれていた。
手術当日、午前には入浴を済ませ、浣腸によっておなかを空にされ、昼前には手術着に着替え、睡眠剤を注射された。その時間になると、その日手術が終わるまで廊下で待機してくれる家族が集まってきた。
主人はまた仕事を休んで朝から来てくれていたが、次に現れたのは、旭川に住む伯母、Kおばさんだった。来てくれるとは聞いていなかったのでびっくりしたが、嬉しかった。それから母やすぐ下の妹が来てくれた。
そして、点滴での睡眠剤投与が始まったため、話はできたが、少しずつ意識が朦朧としてきた。
午後1時ころストレッチャーに寝かされて毛布にくるまれ、まるでドラマの病人のようにみんなに見送られて手術室に入った。もちろん、コンタクトをしていなかったのでぼんやりしていたが、まだ周りは見えていた。
腰に麻酔を打たれ、「感覚テストをしていきますね」と、ブラシみたいなものを腰や足にあてられ、10段階に例えてどのくらい感じるかを聞かれた。「7くらいかな」「5かな」「3・・・」と言っているうちに、私は死んだ。
いや、眠ったのだが、その時の自分の意識の消え方は、ああ、これが死ぬ時ではないかなと思うような今まで体験したことのない感覚だった。とにかく暗い。でも、自分を自分だと分かる。それからなんとなく意識が戻るまで、寝ていたというより、完全に死んでいたようだ。
実は、予定時間を1時間近くオーバーし、手術は3時間に及んだ。家族は心配したという。
長引いた理由は、筋腫が腹膜と癒着して、切り離すのに時間がかかったのと、開けてびっくり、子宮筋腫だけではなく、私自身本当に気付かないでばかとしか言いようがないのだが、「重度の子宮内膜症」だったらしく、内膜が相当子宮の外に飛び出し、それもまたほかの器官と癒着していたために、子宮が通常の位置よりかなり下にあって、切った所からなかなか取り出しにくかったからだった。
それにも関わらず、出血はたった数ccで、もともと血も多く(苦笑)輸血の必要が全くなかったのは救いだった。
看護師さんが「わっちさーん、終わりましたよ~、成功しましたよ~」と言うのを夢で聞いた気がしていたが、それは現実だったらしく、病室に戻る時に薄っすらと意識が戻っていたらしかった。
その後も酸素マスクを付けられたまま数時間眠り続け、気付いたら午後7時過ぎだった。病室が酸素ボンベのある2人部屋に変わっており、照明がまぶしかった。
ベッドの周りには昼間のメンバーに加え、仕事を終えてかけつけていた末の妹のS子もいて、手を握ってくれていた。私の手がずっと冷たかったので心配したようだが、目覚めてから少しずつ血が通ってきたそうだ。みんな口々に「よく頑張ったね」と言ったが、本当に私が頑張るのはその後からだった(苦笑)。
足元に執刀した担当医師がいて、「足を動かして」とおっしゃったので、自分が手術された人だということを忘れて思いっきり動かし、医師は「もういいから、いいから」とあわてていた。ただちゃんと血や神経が通っているか確かめるためだけだったようだ。
すっかり意識が戻った私に安心して、家族は1人ずつ帰って行ったが、途中から来たS子だけは、延長見舞いを願い出て、しばらくそばにいてくれた。
傷の痛さは耐えられるものだったが、まったくおなかや腰に力が入らず、寝返りが簡単にできないため、いちいち横向きになるのに時間がかかることと、また激しい吐き気で夜通し2時間置きくらいにブザーを押して看護師さんを呼び、吐き気止めの注射を打ってもらったのがつらかった。
もちろん、ほとんど眠れなかった。しかし、その吐き気のおかげで、翌日の夜までは傷の痛みは思ったほどではなかった。(続く)



【2007/06/19 00:19】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
懐かしいパレルモ
うりば下
東京宝塚劇場のチケット売り場窓口って、いつからこんな感じに?・・・スターの写真があるって、4月に気付きました。

昨日は友人のMちゃん親子と北海道空知管内由仁町の花のテーマパーク「ゆにガーデン」としいたけ狩りができる「北井農園」に行ってきました。来月、写真でそれらの様子を紹介したいと思います。

今月、CSで2006年2月東京花組「落陽のパレルモ/アジアンウィンズ!」千秋楽が放送され、懐かしく観ました。
はい、もちろんわっちさんはその客席におりました。確か、1階2列目の上手でした。
なかなかの秀作だったお芝居と大好きだったショー。
涙が出ました。この時膝の調子が悪かったおさちゃん。この公演後退団をはっきり決めたんだろうなと思うと・・・。


●ミニエッセー311「病気の話8・子宮筋腫④」
入院直前の励ましの会と称して、妹2人と共に映画鑑賞&食事会をした。その時観た「オペラ座の怪人」は忘れられない。舞台そのまま、いやそれ以上のテイストに感動し通しだった。舞台とは違うラストシーンにも心が震えた。
そして、病院では絶対食べられない焼肉を食べて景気づけをした。
入院しても毎日、主人や妹たちが来てくれることになっていたので、必要な物はその都度お願いすることにして、最初からあまり大量の荷物は持たないで入院した。
なんとなく半分、いつもの旅感覚だったから、今考えればわれながらあっぱれの肝のすわり方である。
手術の1週間前には、手術に耐えられるかどうかの最終検査があったが、とても明るい雰囲気の中年男性の担当医師の言葉に私は笑った。
「わっちさんは、全く貧血じゃないね・・・というか、血が多いね。女性には珍しいよ。大いに結構・・・あはは」・・・やっぱり、血の気が多い・・・男だったのか?
入院当日は医師からの家族への説明もあるので、主人が仕事を休んでついてきてくれた。最初に入った病室は6人部屋で、希望していたドアに最も近い所だった。小学5年で入院した時もドアのところで、自分もお見舞いの方なども便利なのである。
その病院ではパジャマが有料レンタルだったが、私は手術の時以外は終始、長袖Tシャツとスウェットかジャージで通したので、病院からは借りなかった。「いかにも病人風」に過ごしたくなかったのである。
ほかの5人はいずれも「がん」だった。抗がん剤を使用していたので、皆さんほとんど髪の毛がなかった。子宮がんか、卵巣がんだ。
私も取ってみないとまったくがんではないとは言い切れなかったものの、いうなれば外科的なもので、ほかはまったく元気だったので、何となく気が引けた。私は幸せなんだなと実感した。
50代以上の女性が多かったが、みんな明るくいい方ばかりで、安心した。
中に1人だけ私より若い、Cさんという30歳の独身女性がいた。私より10日ほど前に卵巣がんの手術をしたようだったが、あまり調子が良くないらしく、立って歩いてはいたが、抗がん剤治療の影響であまり食事が喉を通らないらしく、いつも食事量チェックでは良くて40%。私が病院の食事100%プラスアルファを食べていたのが申し訳なく感じた。
主人と2人で、医師に手術の方法や、最悪の場合は輸血すること、注意することなどいろいろと説明を受けた。既にいろいろと調べていた私は不安なことはなかったが、医師がせっかく「質問があればどうぞ」とおっしゃったので、「温泉はいつから行けるか」「後の生活で、今までと一番変わるといえばどんなことか」を尋ねた。
温泉は、退院後1カ月以上経ってからということだったが、またしても笑ったのは後者の質問の回答だ。
「活発になることだね。恐らく今まで耐えてきた腰痛や背痛がなくなるでしょうから旅行とか、スポーツとかバンバンできるようになりますよ」。
・・・主人は半笑い、私は心で大爆笑していた。今までだって、誰よりタフに旅をしていたのに、これ以上わっちが活発になってどうするねん! という話だ。もちろん、医師はどうしてわれわれ夫婦が苦笑しているかは知るヨシもなかった。
入院生活は食事が悪くなかったので、おおむね快適だったが、困ったことが二つあった。その階が産科や一部の小児科も一緒だったので、陣痛を迎えた妊婦さんの声や新生児、夜泣きする子供の泣き声がうるさく、夜、イヤホンでラジオやMDなどを聞いても廊下の向こうの音でなかなか眠れず、朝早く起きるのがつらかったのと、後に2人部屋に移った時、隣の人のいびきが異常にうるさかったことだ。(続く)
【2007/06/18 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(4)
おさちゃん退団発表記者会見を見て
五月人形
某ホテルに飾ってあった立派な五月人形。うちは弟がいて、ガラスケースに入った単体の金太郎っぽい人形しかなかったなぁ。

6/7に行われたおさちゃんの退団記者会見。
翌日CSのニュースで見ました。
先にネットで写真や概要を見た時は、なるべく普通にふるまおうとおさちゃんは一生懸命だったのではないかなと想像し、ちょっぴり泣けました。
映像はダイジェストだとは思いますが、終始少し緊張気味だったおさちゃん。それでも、一言一言慎重に、そして誠実に言葉を選び、とても立派だったと、ファンとして誇りに思いました。

マミさんのその映像を観た7年前とは、全く違う気持ちでした。
マミさんの時は、とても現実感があり、涙が出て仕方なかったのですが、今回のおさちゃんの場合、まだ頭のかたすみで「これは夢なんじゃないだろうか」と、ぼっーとしてしまったというか・・・。
いつかこの日が来ることは分かっていたのに、信じたくないと、もう1人のわっちさんが思っているのかもしれません。

でも、夢ではないことは、よく分かっているのです。

あと半年、おさちゃんにはとにかく体に気を付けて、幸せに、楽しく過ごしてもらいたい。それから、われわれファンも頑張りたい。
願いはそれだけです。


●ミニエッセー310「病気の話7・子宮筋腫③」
主人や両親、きょうだいら家族はみんな動揺していたが、エリザベートのように(笑)「私の体は私が決める」と、「子宮だけを取る」と決めて、なるべく早く手術してほしいと病院に電話した。
その時、2月上旬。仕事はどうにかなると踏んでいたが、3月始めには村の月組「エリザベート」を、下旬には花組「マラケシュ」を観ることになっていたから、焦ったのである。
結局、2月23日入院、25日手術、3月4日抜糸、3月7日退院後自宅療養、3月22日~31日半日勤務、4月1日フルタイム復帰という日程になった。
職場では、まず編集長と課長に話し、職場には必要な届出をした。編集会議の場でもう1人の編集部員にも話し、仕事の協力をお願いした。部署のほかのセクションの男性2人へは公式には私がいない時に会議で報告されたようだ。
課長の上の上司である所長と2人の次長、仕事で関わりある先生や同期生、宝塚仲間、そして部署の全女性職員には、メールで真実をお知らせした。
入院するまでの間に取材、執筆、編集できるものはすべて済ませて仕事の調整をした。
もちろん、みんな理解してくれて協力してくれた。そして、女性たちはそれぞれに励ましてくれ、とても嬉しかった。特にその2年前に卵巣のう腫で手術経験のある編集部のK・Mさんにはいろいろとアドバイスしてもらって、精神的に落ち着くことができ、とても心強く、助かった。本当はいけないのだが、病院からメールし合おうと言って、入院前には個人のメールアドレスを交換した。
また、当時主人と同じ部署で、私もその方がやはり同じく子宮筋腫手術で入院した時にお見舞いに行ったOさんにも「心配はいらない、手術したらもっと元気になれるよ」と手紙をもらって涙が出た。
関西の同期のAさんには「試練は乗り越えられる人にだけ与えられる」と、返事をもらい、共におさを愛する関東のNつんには「パワーアップしたわっちさんが想像できる」とポジティブな激励をもらった。
Nつんの職場の先輩であり、ヅカ仲間の全く同じ病気のKさんにもとても細かいアドバイスをもらって、安心して入院の準備ができた。
入院に必要な買い物は、妹のS子に同行してもらった。
さすがに月組「エリザベート」はあきらめ、飛行機とホテルをキャンセルし、チケットはAさんに譲った。
しかし、3月25日の花組は諦めなかった。初めて村で初日が取れていたのだ。宝塚のそばに住むAさん(席は別)と一緒に行くことになっていた。それを目標に復活してやる! と心に決めた。
が、幾ら精神的男前の私でも、入院前や手術直後は少しナーバスになった。それは、もう子供が産めなくなるということに、母がとても悲しんだからだ。
親不孝がつらいから、しばらく母に会いたくないほどだったが、入院してからほぼ毎日、両親そろって差し入れを持ってお見舞いに来てくれた。(続く)

【2007/06/17 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(6)
おさちゃんの退団を知って
はな
東京明智のおさちゃんお茶会会場だった東京プリンスホテルの花屋さんで買った生花。母の日用だったのですが、定宿に滞在中、部屋に置いて癒されていました。

<6万件アクセスへのお礼>
当ブログのアクセス数が6万を超えました。
いつも訪れていただいている皆さま、本当にありがとうございます。
これからもぜひ寄ってくださいね。


そもそも以前、年末の公演名が発表され「アデュー」という文字を見ただけで、泣きながら職場から家に帰った時、いよいよ07年いっぱいなのだと覚悟を決めたつもりでした。

それからいろいろな噂が飛び交う中、ひょっとしたらおさちゃんを追いかける私には来年もあるのかな・・・という一握りの期待も持ちつつ迎えたディナーショー。
けれども、「終わりない旅」で受け取ったあのおさちゃんからの静かなうなずきと笑顔のメッセージは・・・。
でも、決して涙・涙ではなく、なにか幸せな気持ちで家路に着けたこと―それこそ、おさちゃんがくれたプレゼントなのだと今になって思います。

その2日後、ついにその時が来ました。
私は勇気がないから、自らHPなどで知るよりも、その知らせが、おさちゃんのファンになるきっかけをくれた友人Nつんから来ることが望みでした。
2人の間でそう決めていたわけではありませんが、実際にその通り、Nつんから職場へ来たメールで知りました。
就業終了の2分前のことでした。
みるみるうちに、目に涙がたまってしまいました。
まずは、その時間にメールを見てみて良かったととっさに思いました。
なぜなら、隣に座っているヅカ仲間のFさんは午後3時までの勤務なので既に帰っており、周囲の方々もそれぞれ帰り支度を始めていて、何も悟られずに済んだから・・・。
そして、私はすぐに歯医者に行かなければならず、ここで泣いてはだめ、まずは安全運転をして歯医者に行かなければ・・・。そんなふうに冷静にふるまうことができました。

歯医者の待ち時間に携帯メールを見たら、別の友人からも知らせのメールが届いており、「絶句です」とあり、知らせてくれたお礼の返信をしました。
また、NつんやFさん親子をはじめ数人の友人に、率直に「寂しいです」とメールしました。

歯科通いはその日ちょうど最後でしたが、歯医者さんから「わっちさん、ぼくを信頼していただけますか。信頼していただけるのなら、今痛くなくても隣を邪魔している大きな奥歯の親知らずを抜くべきです。隣の歯を守るためです。このままでは、周辺の歯茎から歯周病になり、骨が溶けることにもなりかねません。今すぐは無理でしょうけれど、よく考えて、どうか覚悟を決め、また来てください」と言われ、なんとなく、涙が出そうになりました。
メールをくれた友人たちもみんな温かいけれど、今日は歯医者さんまでなんだか温かいなと。
抜歯はまだ決めかねていますが、同期生(同じ年)の歯医者さんを心から信頼している次第です。

さて、それから車で家まで帰る道すがら、出来すぎの話ですが、聞いていたMDからおさちゃんの「終わりない旅」が流れてきて、声をあげて泣きました。Nつんには「まだ泣いちゃだめだよ」なんてメールしておきながら・・・。

家に着くと今度は東京FCから明智公演お礼状が届いていました。しばらくは、ただただ明智さんの憂い顔をぼんやりと眺めていました。

その後は少しずつ落ち着いてきて、次に自分がしなければならないこと(旅の手配など)を冷静に考え始めました。

いつも爆走だった私。
ついに、本当のラストスパートなのだと自分に言い聞かせたのでした。


●ミニエッセー309「病気の話6・子宮筋腫②」
以前から腰痛や背中痛もあったが、過去に交通事故でけがをしているため、外科的なものと思っていたことも間違いだった。
入り待ち、出待ちでスクワット運動をするたびに、相当腰が痛かったが、まさか筋腫が内臓の臓器を邪魔しての痛みとは、夢にも思わないで続けていた。
その翌年の2003年秋、また花組公演で出掛けた名古屋で生理時意外に出血する「不正出血」を初めて経験し、それでやっと「ひょっとして子宮か卵巣がよろしくないのでは・・・」と、思い始めたのである。
それでも、なかなか検査に行く勇気は出なかった。30歳の時、子宮けいがんの検査、その後に乳がんの検査は経験していたが、出産の経験もなく、婦人科に気安く行く気持ちが芽生えなかったのである。
一応、インターネットなどで子宮筋腫や、職場の仲間が経験していた卵巣のう腫について調べ、だんだんと時折発作のようにやってくる痛みや、おりものが増えたなどの症状が、似ているなと自覚するようになっていた。
そして、その翌年の2004年、まだ30代で独身のヅカ友のKさんが多発性子宮筋腫がひどくなり、ホルモン注射治療で少し筋腫を小さくしてから入院し、手術で筋腫だけを何十個も取った、というニュースが飛び込んできた。独身女性なので、子宮・卵巣の温存療法である。
その年の暮れ、いよいよ私の身も怪しくなってきた。発作のような痛みの間隔が短くなっていた。けれども、年末と翌年1月に予定していた春野さんの「天の鼓」ドラマシティ公演と青年館公演の観劇だけはすべて果たしたいと思い、不快な痛みになんとか耐え、青年館公演が終ってからついに地元の市立病院の婦人科に行ったのである。
そのころにはもう「おなかの中に何かがある。動くたびに痛い」というのがはっきりしていたので、かなり覚悟していた。
最初の血液検査、触診やエコー検査では、「血液検査では腫瘍マーカー(がんなどの反応)は大丈夫だが、子宮の左右に何か腫れているものがある。卵巣のう腫かもしれない。次回、もっと詳しく検査を・・・」という話だった。
その後、村への宙組観劇をはさみ(笑)、2回目にMRI検査を受けた。その結果が出るのに約10日ほど待たされ、「多発性子宮筋腫」という診断がくだされた。筋腫の一つはかなり大きく、膀胱を半分に押しつぶしているという。だから、人より尿のたまりが少なく、トイレが近いはずだと。確かにそうだったが、先に述べたように膀胱炎経験者なので、そんなものだと思っていたのだ。
ホルモン治療という道もあるが、働きながらでは負担が大きく、閉経後はホルモンの関係で筋腫が成長しなくなるとはいうものの、その時40歳で、それまでずっとこの痛みと付き合いながらヅカ生活をして行くかどうかというのもあり、私の気持ちとしては、もう子供を産むつもりもないので「早くすっきりしたい」というのが一番だった。
筋腫だけを取るとなると、再発もあり得るし、子宮の損傷が激しくなる筋腫の付き方のため、取り除くとなると子宮全体を取ることになるとの説明だった。ただし、卵巣を残して、更年期のような症状が来ないようにはできる。その場合のリスクとしては、今後卵巣の病気になる可能性が残るということだった。
私は既に決意を固めていたが、決まりに従い、配偶者の同意を得た上で、どうするかあらためて電話で答えることになった。(続く)


【2007/06/16 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(8)
歌劇誌6月号を熟読して
つめ
ゴールデンウィーク中のわっちのネール。最初はきれいでも、だんだん取れて来るんだよなぁ・・・。

先週、歌劇誌6月号を熟読。ただし、いつもながら花組やおさちゃん関連のところを。あとは、「さぁーっと読み」です。
「主役男役お互いを語る」っつーのは、良かったですなぁ。
おさ・あさの変わらぬ愛(テレっ)を再確認したのは、言うまでもないですが、轟さんって、それぞれをとても的確に表現していて、やっぱりさすがだなと思いました。
あとは「明智」の稽古場点描や楽屋日記にもにんまり。
そして、りせちゃんの「えと文」に歓喜。
としこさん、おもしろいっ・・・おさが冷蔵庫から出てきたら・・・ぎゃはははははははははは。
なんとなくありえそうな気がしないでもなかったです。爆


●ミニエッセー308「病気の話5・子宮筋腫①」
子宮筋腫をはじめ、婦人科系の病気で悩んでいる女性、手術や治療を経験した女性の多いことに、自分が当事者になって驚いている。
もし、今悩んでいる人がいたら、少しでも参考になれば良いなと思い、不調発覚から検査、手術、その後の話まで、なるべく詳しく、勇気を持って書こうと思う。
ただし、あくまでも「私の場合」なので、体質などによって症状一つ取っても誰もが全く同じ事象、対応ということにはならないということを前置きしておきたい。
私は小学6年の冬に初潮を迎えたが、以来生理痛は重い方だった。特に、2日・3日目はできれば学校も仕事も休みたいくらいだったが、学生時代まではそんなには生理痛の薬も利用せずになんとか我慢していた気がする。
社会人になってからは、よく生理痛の薬を飲んでいた。ただ、あまり薬の常用は体に良いものではないと考え、必要最低限にしていた。
この重い生理痛は、何らかの病気のサインの場合があると聞きつつも、何せ生理痛は誰にでもあると思っていたし、期間やサイクル、経血量も標準だったので、筋腫に気付くまでは「異常」という自覚が全くなかった。
それが、悪かったようだ。
何となく下腹部内の調子が悪いと最初に思ったのは37歳の時、春野寿美礼さんのプレトップお披露目となった2002年8月花組「あかねさす紫の花」博多座公演を観た帰りだった。
それまでなんでもなかったのに、下腹部と足の付け根に突如、不快な痛みが襲い、とりあえず気休めの痛み止めと思って、生理痛用の薬を飲んだのだが、まったく治らず、やっとの思いで北海道に帰ってきた。
しかし、見た目や手で押してみても、特に腫れも感じなかったし、その時はまったく婦人科系とは思っておらず、「博多のホテルで冷房を効かせすぎて、リウマチが悪化したのかな」とのんきに思い、まずは内科に行ってみた。
そこでは「婦人科系では・・・?」と、生理不順など幾つかの質問を受けたのだが、どれも当てはまらなかったので、医者はもしかしたらリンパに何らかの細菌が入ったかもしれないので、とりあえず抗生物質を飲んで1週間様子を見ましょうと言った。
それまで静かに眠っていた筋腫たち(というよりそれに影響を受けたほかの臓器や器官たち)が、冷房で腰を冷やしたことによって警告を発してくれていたのに、その時はとりあえず激痛がなくなったので、「よし」としたのである。(続く)

【2007/06/15 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
CSで大阪DSを
あけち
昨日の続きです。分かりにくいですが、抹茶味のマドレーヌに「明智」の焼印。しぶいっ!!

先週のことですが、CSのニュースでおさちゃんの大阪(阪急インターナショナル)DSの様子を観て、また感動がよみがえりました。「甦った情熱」ならぬ「甦った幸せ」かな。
当初は大阪に行くつもりだったんですが、結果的にテーブル番号が夢のようにとても良かった東京だけに集中し、正解でした。
いろいろと複雑な思いながら、早くもDVDが楽しみです


●ミニエッセー307「病気の話4・気管支炎」
母は長年重度のぜんそくだった。気管が弱いところが遺伝するのかどうかは分からないが、私も強くないし、妹たちもそうである。
確か、最初は結婚する少し前だったので、23歳だったと思うが、風邪をひいたわけでもないのに咳が出て止まらず、病院に行ったら気管支炎だと言われた。
その際、医者から「ぜんそくの気もあるようだが、身内には気管が弱い人はいるか」と聞かれたのである。いると答えると「体質は変わるから、今は出なくても30、40代になったら症状が出る可能性がある」・・・ちょっとショックだった。私は大丈夫だと思っていたからだ。
とりあえず、その時はせいぜい1週間くらいで治るだろうと思っていたのだが、病院で出された薬が全く効かず、咳に苦しんでから2カ月も経った。
私は結婚式を控えていたので、何とか治さなければという一心で、人見知りにしては勇気を出して、ある日地元の薬局の薬剤師に相談した。「どうしても咳を止めたい」と。
すると、「とっても効くんだけど、何らかの副作用が出るかもしれないけど、いいかい。絶対ほかの薬と併用しないでね」という薬を売ってくれた。それが、副作用もなくたちまち効いて、けろっと苦しみから解放されたのである。
それから何十年もぜんそくはおろか、気管支炎も起きていなかったのだが、今から3年ほど前に風邪をひいたのがきっかけで、またひどい咳が続き、病院に行く羽目に・・・。
その時は、花組東京公演中でなるべく咳を我慢していたが、大変苦しく、飲み薬より強く、心臓の負担のためには、絶対多用してはいけないと言われた携帯吸入剤を2種類出してもらった。
それからというもの、咳を伴う風邪をひくと、ちょっと「ぜーぜー」とした咳が長引くという傾向になってしまい、かつて医者が言ったことは遠からずだったのだと思っている。
気合いで、風邪をひくことは年間でそんなにはないのだが、かなり気を付けている。
咳はとにかく観劇の大敵だ。自分も苦しいが、周りに迷惑を掛けるからだ。(続く)

【2007/06/14 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(4)
東京雪エリザチケットゲット
とかげ
おさちゃんのお茶会での「今回のお菓子」は焼印入りマドレーヌセットでした。とかげちゃんだ~(もう一つは明日アップします)

東京の雪組エリザベートのチケットをゲットして一安心。
友会もぴあの先行などもすべてはずれ、もちろん一般発売は最初からあきらめ、ほかで買いましたが、それなりに納得のお席。
まだ先ですが、千秋楽も近い時なので、楽しみにしています。


●ミニエッセー306「病気の話3・関節リウマチ③とそのほか」
実は、それから31年生きながらえてはいるのだが、完治はしていない。熱とは関係なしに、関節痛は少なからずある。膝、ひじ、手の指に表現し難いなんともいやらしい痛みが生じる。冬や季節の変わり目は特に厳しい。
この痛みを知っていると、外科的な痛みなんかまだ耐えられる。
少しでも冷やすとすぐに症状は表れる。ただ、30代に入ってから昔よりはかなり良くなった気はする。
そういう状況に慣れたというのもあり、特に日常生活には支障がないのはありがたい。同じ持病を持つ友人には、関節を支える装具なしにはいられなかったり、発作が起きれば手足の指が動かないなど、重いレベルの人がいるが、私はそこまでひどくはない。
ただ、老後に向かって心配はある。それこそ、心臓に来ないように気を付けなければならないなと思っている。
結局、病名を言い渡されてはいないが、とにかく体質的にリウマチ系であることは間違いない。
              ◇
それから中学・高校生の時に頻繁にかかった病気と言えば、「膀胱炎」だ。女性に多い病気で、ここしばらくは大丈夫だが、社会人になっても何度か病院に行ったことがある。
抗生物質を飲むと良くなるのだが、頻尿になり、残尿感があり、ひどくなると排尿のたびに膀胱が痛む。あれも嫌な病気だ。
それから、「坐骨神経痛」もやった。腰の一箇所がどうにもこうにも痛くて、整形外科に行ったら、この診断。その少し前に交通事故で背骨を打撲した際、神経の突起が骨に当たる所に出た様子。これも一生ものかと覚悟した。しかし、不思議なことに次第に治ったので、助かった。
また、今でも時々なる手首の「ガングリオン」。これは職業病で、手首の使いすぎにより、体質から関節に袋状のものができ、そこに潤滑液がたまってぼっこりと腫れ、手首の動きを疎外し、激しい痛みを引き起こすもの。
就職して、初めての部署で連日かなりの量のデータ打ち込みや重いナンバリングでの番号打ち、ワープロなどで、すっかり両手首をだめにしてしまった。今まで、ひどいものは3回くらいできた。
これは、手術をしないと袋は取り除けないのだが、とりあえず太い注射針でゼリー状の中身を抜き、しばらく手首を動かさず、湿布をすると良くなる。痛みがひどい人は電気治療もある。なり始めなら、潤滑液がかたくならないうちに、マッサージするなどもできる。
今はもっと良い治療方があるかもしれないが、もし、同じ病気の方がいたら、手術はしないことをおすすめする。なるべく手首に傷は残さないほうがいい。(続く)


【2007/06/13 00:03】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(4)
NEWフェアリーズ
お茶会
もう1カ月以上も前になるんですね。明智おさちゃんのお茶会・・・間近で会えるってことは、本当に幸せです・・・。

1年ごとに交替するCSの組ごと男役&娘役のスカイ・フェアリーズ。先だって来月からの新しいメンバーが発表になりました。
ほかの組の方はあまり存じ上げないのですが、花組は意外でした。というのも、良い意味で超フレッシュではなかったから。
ねこてちゃんこと彩城レアちゃんも梅咲衣舞ちゃんも、花ファンにはも早、下級生の中でもすっかりおなじみという感覚だったので・・・。
良い経験になると思うので、10人の皆さん、頑張っていただきたいです。


●ミニエッセー305「病気の話2・関節リウマチ②」
振り返れば、子供のころ入院したという経験も良かったかもしれない。一緒に入院していた小学4~中学1年までの女の子たちとは、とても仲良く共同生活を送れたし、世話になった医者や看護婦さんたち、また毎日のように見舞いに来てくれる家族や親類、友達に対し、感謝の気持ちが強くなった。
特に母はまだ1歳にもならないS子をどこへも預けられない時は連れての病院の往来。すぐ下の妹はまだ小学2年生、弟は4歳だった。
また、動けずにベッドに縛られていたり、車椅子で行ける所が制限されるという時間が、自由のありがたさを痛感させてくれた。
ただ、多感なころで、面と向かってみんなに「ありがとう」と言えたわけではない。退院してからもしばらく休んだので、およそ1カ月学校の勉強が遅れたことへの焦りもあった。みんなは健康なのに、なぜ自分だけがこういう目に遭うのかと考えたこともあった。
あとは、ぼんやりとだが「死」を見つめていた。というのは、みんなと遊ぶのが面倒くさくて寝たふりをしていた時、周りの女の子たちの見舞いにきていた母親たちが、私と私の母のことをこそこそと話していたのを聞いたのだ。
「わっちさんちゃんは、まだ原因が分からず、治療法も試行錯誤で、お母さんは少し神経質になって、先生が分からないなら私が調べると言っていた。リウマチはひどくなると心臓にくるから、一生運動禁止ということもありえるらしい。心臓にきたら、危ないわね」―
一生運動禁止もありえるから、覚悟しておいてくださいというのは最初から言われていたが、子供心に、そんなに自分がひどいのかなと暗い気持ちになり、もし人生が短いなら、退院したら好きなことをさせてもらおう、歌手になろうなどと頭によぎったものだ。
もう運動選手はだめだな―それは自分でも分かったので、それ以降は興味もインドア、文系へと向いていったのだった。
退院後も何度か通院し、熱を出し、関節が痛いということはあったが、おかげさまで入院時のような耐え難い激痛というのはなくなった。6年になってからは体調がかなり良くなり、何と一日も休まずに通学したほどだった。(続く)
【2007/06/12 00:45】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(4)
わたるさん、よさこいソーラン審査員
水仙
毎春、庭にわっさわさ咲く水仙ちゃん。何種類かあり、このほかに全体が白いのも上品なんですよね。

本日から村月組、友会申し込みだぁ。ガンバロウ~

OGの湖月わたるさんが10日に終了した北海道の6月の風物詩「第16回よさこいソーラン祭」のコメンテーターや審査員としていらしていて、北海道のテレビにたくさん出演されていました。
とてもうれしかったです~。
「くたばれ、ヤンキース!」では色っぽい女悪魔でしたが、やっぱり普段は男役の雰囲気が残っていて、すっきりやせられて素敵でした。
わたるさんは2年前、そしてその前にも札幌公演にいらしたし、宙組のショーでも「よさこいソーラン」風の場面に出ていらっしゃっていたので、今回のお仕事はぴったりでしたね。
来年は、ぜひおさちゃんも!!・・・なんて・・・。

わが職場の大学の学生チームは残念ながらファイナルまで残れませんでした。また来年、頑張れ!!


●ミニエッセー304「病気の話1・関節リウマチ①」
さわやかな季節に病気の話で恐縮だが、しばらくお付き合い願いたい。
タイトルには「関節リウマチ」と付記したが、実は私が小学5年の時にした大病の病名がはっきりそう断定されたのではなく、正確に言うとそれに最も症状が近かったということである。
小学5年の春先だったか、私は原因不明の高熱が何日か続き、病院に行ったところ、「しょうこう熱の疑い」ということで、もうしばらく様子を見ようということで、学校を休み自宅療養していた。
しばらくすると回復したため、学校に復帰したのだが、今度は6月の運動会の直前に「水疱瘡」になってしまった。
それがやっと治り、陸上部の練習にも出れるようになり、夏休みが明けてしばらくしてから(北海道の小学校の夏休みは8/20前ごろに終る)のことだった。得意なはずの走り高跳びの練習中、足が痛くなり低いバーでも飛べない状態になった。
既に40度の高熱があったのだが気付かず、ほとんど見学状態でクラブを終え、帰ろうとしたらあまりの足の痛さに、ほんのちょっとずつしか前に進めず、家まで20分くらいの道のりを倍以上かかってやっと帰ると、もう動けなくなった。
翌日、なんとか母につかまりながらR市立病院に行くと、そのまま入院。生まれて初めて車椅子生活がスタートした。その時に「リウマチ熱による関節炎に近い」と言われたが、病院でも結局最後まで断定できなかった。
全身の関節が痛んだが、最も痛かったのは足で、付け根と膝は「いっそのこと両足を切り落として欲しい」と本気で思ったくらいだった。身体のことではめったに泣かない私も、さすがに涙が出た。
確か、まだ私服だったので入院することになったその日のうちのことだと思うが、病院内の整体みたいなことをしてくれる技師さんの所に連れて行かれ、とりあえず少しでも激痛を和らげるようにと、ツボ押し的なことを下半身全体に施された。
すると、不思議なことにしばらくすると本当に痛みが和らいだ。しかし、熱は下がらず、しばらくは普通に歩くことはできず、6人部屋の小児科病棟のベッドでは、ずっと点滴の日々だった。
当然検査もあったが、とにかくベッドに横たわっての点滴がつらかったことばかり思い出す。血管が細い私は、毎日位置を変えて針を刺し直され、腕、手首、足とあらゆる所にかなりひどい注射跡が残った。
点滴をしたまま眠ってしまい、針がずれて点滴がもれ、腕がパンパンにふくらんだこともあった。
良くなったと思ったらまた悪くなりを繰り返し、およそ25日入院していた。(続く)

【2007/06/11 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(4)
早いですが・・・
なににつかう
でっかいもので両面シールがついているんですが、これは何に使う物?・・・ただ飾るのかなぁ。知らないで買うか・・・。

冬の花組東京公演、とりあえず毎週末のホテルだけ先に押さえたわっちさん。
今回予約したのは、定宿ではありません。
日比谷に詳しい、勘の良い方は、お分かりですよね!!


●ミニエッセー303「退団後の真琴つばささんのこと7・とんでもない勘違い②」
ところで、なぜマミさんが同級生だと気付いたかというと、たまたま花組の「あさきゆめみし」(初演)が何年に上演だったかをインターネットで調べようとして、愛華みれさんについてのプロフィールが載っているサイトに突き当たったことだ。
そこには、愛華さんが「昭和39年生まれ」だと書いてあった。
私の頭の中には「?」が幾つも渦巻いた。
「タモさんって高卒で、マミさんの同期だよなぁ・・・って、ことは・・・」と、マミさんのことを検索する前に、稔幸さんのページを開いてみた。やはり間違いなかった。そこには、宝塚でのデビュー作のことも書いてあり、確かに1985年になっていた。
それで、私は自分の長年の勘違いに気付いたというわけだ。
思えば、マミさんのことをあらためて検索するようなことはそれまでなかったので、生年月日の「生」も気にせずにいた。というか、「昭和40年」の呪縛からさめなかった。
マミさんのことが載っているサイトにはやっぱり「昭和39年」の文字。
うーむ、宝塚風に言えば、紛れもなく「同期生」だ。同じくマミさんファンで私にとって大切な同期の友人Aさんも一緒に・・・。
とても嬉しい。ますます同じ時代に生きる運命を感じる。
しかし、どうもまだ意識ができない。
今年は、直接マミさんに会える最初の機会が先月末のル・テアトル銀座でのミュージカル「SHOW店街組曲」だった。その時は既に同期生と気付いていたが、まだ姉目線で見守っていた感じがする。
そして、次は今月末の東京でのファンクラブイベントである。とにかくトークが楽しみでたまらない。その感想とともに、いよいよ告白メールをマミさんに送ろうと考えている。
例年そのほかには、年末のディナーショーというパターンなのだが、今年は8月にうつみ宮土理さん主演のお芝居になかなか重要な役どころで出演するので、駆けつける。
その代わり、9月のTCAスペシャル日のイベント<東京>や年末のディナーショーには欠席の予定である。
どこにいても、年齢がどうであっても、マミさんへの応援の気持ちは変わらない。毎日マメにブログでその日の様子を知らせてくれており、一日の終わりはマミさんで締めている。
いつも一生懸命な人、大好きな同級生、マミさんの健康と幸せを心から願い、今までの「勘違い」のお詫びとしたい。
【2007/06/10 00:15】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(6)
行くぞ、ゆみこちゃんDCも
はぶらし
これ、ミスバニーならなんでもいいと思って、中身を確かめずにかったら、ありゃぁ、歯ブラシセットばっかりだったぁ。

そういえば、次回村の花組公演中に、ゆみこちゃんこと彩吹真央さんのドラマシティ公演があるんですよね。
こりゃあ、もう、絶対行かなくっちゃ~。
ゆみこちゃんは泣く泣く、そして誇りと自信を持って送り出した元花組っ子。ずっと見守りたい人なのです。
また演出が小柳先生ということで、とても作品も楽しみです。

昨日は雪組札幌公演の主催者発売分の会員先行発売で、無事予定分をゲットすることができました。


●ミニエッセー302「退団後の真琴つばささんのこと6・とんでもない勘違い①」
このエッセーを早く書かなければ・・・と思いながら、あまりにもマミさんファンとして恥かしく、数カ月もなかなか書けないでいた。しかし、そろそろ恥をさらそうと思う。
このブログで、宝塚在団中のマミさんとの出会いのことなどを書いていた昨年は、本当に気付いていなかったことだ。今年に入るまで、信じきっていた。
何かというとマミさんの実年齢のことである。マミさんも既にテレビ番組で実年齢を明かしているので、オブラートに包まず書かせていただく。
タカラジェンヌの年齢はスミレコードとして公表されない。しかし、例えば中学卒業か高校に行っているのかは公式なプロフィールブックである「宝塚おとめ」に記されていて、音楽学校は2年と決まっているので、中学卒業の生徒ならばずばり分かるし、特にその生徒のファンなら高校何年で中退したか、または卒業したか分かるので、実年齢は口外しないまでも知っているわけである。
私はなぜか分からないが、マミさんを私より1学年下の昭和40年生まれと思い込んでいた。それが誤りの根源である。だから、マミさんの同期生で同じく高校卒業者である愛華みれさんや稔幸さんのことも今までそうだと思っていた。
だから、自分としては彼女たちをまったくの自分の同級生だと意識せず、「一つ下の妹」「まあ、同世代だわ」ととらえていた。
よく目を見開いて当時の「おとめ」を見ろと自分に言いたい。彼女たちのデビューは1985年の「愛あれば命は永遠に」と書いてあるではないか。85年って、つまり私が就職した時だ。
マミさんが音楽学校に通っていた2年間、私は短大に行っていて、同時期に社会人になったというのに、ファンになって10年経っても気付かないとは・・・。
もう2年前だが、マミさんを面白がって番組に呼んでくれる島田紳助さんが司会をする「クイズ・ヘキサゴン」にマミさんが出演した時、その時はマミさんが39歳だと思っていたのだが、マミさんは紳助さんに年齢を聞かれて「もう(退団したから)正直に言いますよ。今40歳です」と言った。
それを見て「もう、マミさんったら、年齢を若く言う人はいるけど、一つ上に言うなんて・・・」と、思った私。
それでも疑いもせず、マミさんの誕生日には、いつもファンクラブ会員だけが送れる専用メールでお祝いを言うのだが、「また1週間だけ同じ年ですね」と、送信していたのだ。
1週間どころじゃない。年中ほぼ、同じ年じゃないか・・・。
マミさんと私の誕生日はちょうど1週間違いだ。今まで、マミさんを「妹」と思っていたのに、1週間「お姉さん」だったとは・・・。
いまだに同級生だという感覚にはなれていない。そして、ことあるごとにマミさんにメールしているが、まだ「勘違い」の件は告白していない。(続く)


【2007/06/09 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
早くも次回花公演旅計画
ばにー
また買っちゃったミスバニーグッズ。えへっ

源氏も始まらないうちですが、次の村の花組公演、いつ行くか考え始めているわっちさん。と、いうかほぼ毎週行きますけどね。
ファントムと明智さんの村初日に行けなかったので、まずは初日に行きます。
もちろん、千秋楽も行きます。何がなんでも。
仕事、忙しい時でひんしゅくかもしれないですが・・・職場のみなさん、お許しください


●ミニエッセー301「好きな言葉2」
「親しき仲にも礼儀あり」というと一見、堅くてつまらない言葉のように思えるかもしれない。だが、人間が周りと共生していく上で、とても基本的でなおかつ、とても大切なことではないかと私は思う。
最も身近な相手としては、家族がいる。親戚となるとある程度礼儀を心掛けると思うが、同居でも別居でも、夫婦間でも親子でもきょうだいでもそこに礼儀ありだ。
働いて収入を得る、健康を気遣う、ご飯を作る、お茶をいれる、そうじをする、洗濯をする、電話を取り次ぐ、送り迎えをしてくれるなど、一つひとつ互いためにしてくれていることに対して、当たり前と思わずに常に感謝することも必要だ。
毎日、毎回いちいちお礼を言えないというならば、週に一度、月に一度でもいいから「ありがとう」と言うだけで、互いを思いやっていることが確認でき、気持ち良く、また次もやろうという気が起きる。
直接では恥ずかしければ、ちょっと出掛けた時にでも「いつもどうもありがとう」とメールすればいい。
「何も言わなくても分かる」―たとえそんな仲であっても、やはり時々は口に出して感謝を伝えた方がいい。
日常のあいさつもできるだけした方がいい。「おはよう、いただきます、ごちそうさま、行ってきます、お帰り、おやすみ」・・・ほんの一言で、世界は変わる。
私も主人と、よくあいさつを交わす。習慣になっているから、極当たり前のようになっているが、出会って20年以上、よくぞ続いているものだ。特に主人はご飯を用意するだけで「ありがとう」と言ってくれるので、礼儀人だと感心する。
子供のころ、私の父も弟も家の中でトイレに行く時でさえ「ちょっとトイレに行ってくるから」といちいち母に言うものだから、母があきれて笑っていたという思い出があるが、殺伐とした昨今の愛の見えない家庭を思えば、とにかくコミュニケーションのある家族―それが大切なことなのだとしみじみ考える。
一歩、外に出た時の礼儀については言うまでもない。近所、学校の先生、友人、恋人、職場の人々・・・親しくない人、見知らぬ人に対しても、礼儀を欠かないことである。また、礼儀が存在することでどんな仲でも互いに土足で踏み込まないような適度な距離を保つというのも大切だ。
特別に身構える必要はない。常に謙虚な気持ちで、相手を敬い、思いやりを持つ。自分がされたら気持ちいいなと思うことを自らすればいい。そうすれば、自然にあいさつの言葉、優しい言葉が出るし、親切にもなれる。
とは言っても、どの世界にも、腹の立つ相手はいるものだ。礼儀どころか顔も見たくない、思わず一泡吹かせたいという相手が。しかし、そんな相手であっても、礼儀だけは無理にでも忘れないようにしたいと思う。それがなくなれば、こちらが負けという気がするからだ。
結局は「親しき仲にも親しくない仲にも礼儀あり」である。
ことわざではないが、宝塚の舞台のセリフで好きなものもあるが、これについては、また別の機会にしたい。


【2007/06/08 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
当てた、夏のマミさん千秋楽
ちぇりー
けっこうチェリー模様が好きで(食べるのも好き)、思わず買ったトラベルポーチセット。鏡とくしもついてましたが、妹にあげました。

<ブログ300回目に当たって>
いつも当ブログを訪ねてくださっている皆さま、本当にありがとうございます。
おかげさまで、本日、300回目を迎えました。
今後ともよろしくお願いいたします。

春野寿美礼さんの退団が決まりましたが、このことについては心の整理がついてから、書きたいと思っています。
もうしばらく時間をくださいね。

やっちゃったよ、わっちさん、またまた・・・。
マミさんの出る夏の舞台「しとやかな獣」の千秋楽をFCで取り次いでいただけました~。ありがたいです。
楽しか観ないって、申し訳ないけど、公演時間の都合や飛行機のばか高い期間を避けるとそこしかなかったんです。
TCA東京に行けないから、精一杯見守ります!!


●ミニエッセー300「好きな言葉1」
芸能人などがよく「好きな言葉は何ですか」と質問されているが、今自分が好きな言葉って何だろう・・・とふと考えてみた。
職業柄、仕事では自分の好む・好まないに関わらずバラエティー豊かなあらゆる言葉を駆使しなければならないのだが、やっぱり好きな単語やフレーズは多用してしまうものだ。
笑われそうだが、単語としては「宝塚」「花」「春」・・・もっと言えば「男役」「観劇」「銀橋」「歌」などが好きに決まっている。大食いタレントが冗談で、好きな言葉は「大盛り・デカ盛り・食べ放題」(食べ放題は私も好きだが)だと言うのと同じで、宝塚は生活そのものだからだ。
だが、それは置いておいて、真面目にいくと「感謝」「尊敬」「品(ひん)」「素直」「礼」「誠実」「正直」「初夏」「旅」「紫」「明日」「仲間」「笑い」「出会い」「勇気」といったところだろうか。われながら自分らしいチョイスだ。
「勇気」に関しては、好きな言葉というよりはこれを持ちたいという理想だ。
実は、私が個人的に使っているペンネーム5文字のほとんどが、漢字かひらがなかの違いはあるが、今挙げた中に含まれている。ちなみに、ペンネームは半分は占いで、半分は好きな言葉によって決めたものである。
「心、愛、夢、友情、愛情、未来、希望、あこがれ、涙、霧雨、たそがれ」など、宝塚の演目に出てきそうな言葉を挙げなかったが、ロマンチック、ドラマチックなら何でもよくて、まだまだ自分に未知の将来があると思っていた若いころならば、いの一番に挙げたことだろう。
しかし、毎日の現実の世界を精一杯生きる40代前半の今、「未来」が謙虚に「明日」になり、心や愛や夢や友情や希望などに至っては、決して夢も希望もなくなったのではなく、「好きな言葉」では片付けられないほど重く深いものだと認識するようになった。
だからこそ、ひととき劇場で夢を見る―そんな感じがする。
それから、ことわざなどのフレーズとしては、今回の最後に最も好きなものを述べるとして、助け合いなどの良い意味での「ギブアンドテイク」、やはり「清く正しく美しく」、自分が十分実っているわけではないが「実るほど頭(こうべ)をたれる稲穂かな」、能はないが「能ある鷹は爪を隠す」、いつも迷わずにこうできればいいなと思う「案ずるより産むが易し」などを挙げたい。
そして、今の私が最も好きなことわざであり、大切にし、忘れずにいたいと心掛けていることでもあるのは「親しき仲にも礼儀あり」である。(続く)



【2007/06/07 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(6)
あらためて、春野さんDS「エチュード」
石
そういえば、今年のゴールデンウィークからの幸運はこの石のおかげ?その数日前、きれいだなぁと思って幸運を呼ぶというパワーストーンを買ったんですよ。信じる者は救われる?

前日におさちゃんの東京DS初日を観た友人からは、ミニミュージカル仕立て中心の今回の内容や選曲に対する少し辛口めな感想メールをいただいて、いざ自分が行った6/4のランチショーですが・・・。

確かに冷静に作品だけのことを言えば、せっかくのベテランメンバーたちも使われ方がもったいないし、話もおさちゃんの好きな絵本の焼き付けで、終わり方も中途半端だし、選曲も「終わりない旅」とおさちゃんが好きだという「MUSICA」以外はいまひとつぱっとしない、ちと盛り上がりに欠けるという残念さはありました。

でも、おさちゃんがN.Yでミュージシャンを目指す青年・ミスターすみれ(愛称パンジー)として、のびのびと、朗々と演じ、歌っているのを近くで見ているだけで、私には至福の時間でした。
これから、もう何回もこんな機会があるわけではない。一瞬一瞬がすべて愛おしかったです。
ジーパンから彼女の好きな薄いピンクのこれぞ宝塚な衣装までどれも似合っていて素敵だったし、4年半前のDS「エス」とは違って、ちゃんと客席全体に心が行っていて、おさ自身が自分らしく無理しないでやっていたのが何よりも嬉しかったです。
本人もMCで「充実の日々」と何度も言っていたし。

客席が水を打ったように静かになった「終わりない旅」では、ファン1人ひとりの顔を確かめるように語り掛けるように歌い、終始うっとり・・・いや、ガン見の私にも、なんかうなずきながら微笑んでくれたんです。うるうるしないでいられようか・・・。

パンジー君は、物語の終わりにギターを抱えて新しい世界を求めて旅立っていきました。
実際の春野さんとリンクするのかどうかはまだ分かりませんが、アンコールでは「みなさんの心がよく伝わっていますよ」と言っていました。その真意は・・・???

うーん、ギターが弾けるわっちとしては、今回ちょこっと披露したおさちゃんのピックでのコードストロークはまだまだやったな。
ピックの当たりが弱く、音がパラパラやん。ギターではパラパラ音は禁物なんです。パラパラ音は、弦の音ではなく、弦にかするピックの音。でも、初めてなのだろうから、よくやった!!(なんだかんだ言って、結局は甘い)

おさちゃん、幸せな時間をありがとう!!
さおたさん、王子さん、えりさん、じゅりあちゃん、ありがとう!!

食事は、パレスホテルは、それこそ「エス」以来で、前回はデザートが良かったのに今回はいまひとつでした。でも、魚料理とノンアルコールのオリジナルカクテル「すみれ」はおいしかったです。
ほんとは、アルコール入りの「花」というのも試したかったのですが、お酒が苦手な上に、新千歳空港から家までは車だったもんで、あきらめました。
それに、前日くらいからお腹の調子がいまひとつで、いつもはする「パンのおかわり」をしなかったな・・・爆。

いやーーー、実に何年かぶりでスカート(ワンピースキャミドレス)をはいたぜ・・・。膝、閉じるの「ゆるくなかった(大変だった)」。


●ミニエッセー299「宝塚全国ツアーに思うこと5」
この事件は極端な例ではあるが、結局「観劇に出掛ける」ということを甘く見たが故、どんなジャンルでも生の舞台というものは、客席の雰囲気も舞台作りの要素の一つであるという意識がない故、そして、個人の事情による座席のことや周囲への思慮をまったく欠いた人がいたが故に起きたという結果である。
このほかにも、上演中ずっとしゃべり続ける人、写真を撮る人、付き合いで来てずっとイビキをかいて寝ている人、携帯を鳴らす人、小さい子を泣かせたままでいる人、拍手も手拍子もしない人、開演中に飲食している人、ビニール音をさせる人など、大劇場や東京宝塚劇場でも見られるよりずっと高い確率で「無法地帯大会」が展開される。
何も笑ったり、泣いたりなど舞台を観ての素直な反応を制止しているのではない。特別なことをしろということではないのだから、観劇し慣れていない人であってもただ普通に行儀良く客席に居れないものだろうか。芝居の1時間30分、ショーの55分を我慢できない人は宝塚観劇には向いていないのだ。
係員の厳しい態度も必要だ。プロモーターや会場はその教育も徹底するべきだ。観客同士で注意して注意する側の方が嫌な思いをすることのないように、ささいなことでも注意すべきなのだ。そのためならば、周りの者が一瞬舞台に集中できないことがあっても、私はいい。
また、札幌公演のチケットには未就学児童入場禁止とあるが、守られてはいない。必ずどの会場にも赤ちゃんの泣き声が響く。「連れてきた方には、チケット代を返してでも、お引き取りいただきます」と徹底するべきだ。決まりを守って努力して子供を預け、やっとの思いで来ている人に失礼である。
騒いでもある程度は許される大衆演劇やコンサートやお笑いや落語のステージと、宝塚の観劇とは違うのだということを事前に周知するべきだと私は思っている。特に、年に1度しか全ツが開催されないような土地では。
チケット販売の時に必ず分かりやすくイラスト入りで注意書きを記したパンフレットを配り、だめ押しで当日も開演前に配った上に、アナウンスもしつこく徹底するのだ。「守らなければ、公演を中止・・・」と、あまりにひどければ本当に中止するべきだ。
ただし、アナウンスは「開演します」と静かに集中させてから、開演の直前で言わなければみんな聞いちゃいない。
よく大劇場や東宝では「皆さまが快適に観劇できますようご協力を・・・」などとアナウンスされているが、それが具体的にどんなことなのか、常識を知らなかったり、自分勝手な人間が多く、ただ言ってもきいてはもらえないのが、現代なのだ。
一度、全ツの前に全国放送の一般のテレビで「宝塚観劇マナー」の番組でもやってもらえないだろうか。その台本やマナー喚起のパンフレット、アナウンス原稿作りを私に任せてもらえたら良いのだが・・・。そこでは、「あなたも舞台を作っている一人。互いにマナーを守り、ステージに集中し、思い出に残る良い舞台にしましょう」ということを強調したい。



【2007/06/06 08:30】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
えらいこっちゃTCAスペシャル2007
さきこ
3姉妹でカラオケに行った時のわんこのきもち社長。

おさちゃんDSの余韻に浸っておりますが、ちょっと・・・とんでもないことになりましたよね、今年のTCAスペシャル。
「おさ・あさ共演」までは予想内でしたが、東京にマミ出演って・・・

えーーーーーーーーーーー!!

いくらスーパータフなわっちさんでも体は一つだぜ。
当然、何が何でも村に行きますけど・・・爆。
マミさん、ごめんなさい、許しておくれ~

こりゃぁ、またチケット難になるんじゃないかい・・・。
翌日は月組さんも観たいし・・・ぎょえーーーーーー。


●ミニエッセー298「宝塚全国ツアーに思うこと4」
北海道公演の会場になっている北海道年金会館は、本場の舞台機構と同じように銀橋(もちろん取り付け式)と花道がある。
2002年月組公演で起きたのは、「おばあさん、舞台に上がり、花道から舞台袖へ」事件だ。
前から2列目くらいのセンターブロックという良席に座っていた70代くらいの老婦人が、上演中にトイレに行くために堂々と立ち上がり、堂々と最前列を通って、堂々と上手に進み・・・そこまでなら、たまにあることだ。しかし、客席降りのある公演だったため、花道に階段が付いており、老婦人はそこを堂々と上がり、花道の上から舞台袖へと通じるカーテンをくぐり、中へ入って行ってしまったのである。劇場係員も少し離れていて、止める暇もなかった。
その人のすぐ後ろに座っていた私と妹は姿勢を低くせずに進むことに呆れて、何気なく最後まで目で追っていたものだから、あまりに驚いて顔を見合わせてしまった。たまたまその時は上手の袖から生徒が登場する場面ではなかったが、そのタイミングだったとしたら・・・。
老婦人はしばらく出てこなかったが、やがて戻ってきて、また堂々と花道からその階段を降りてやっと客席の外へ出て行ったその光景は衝撃的だった。出番を待っていた生徒たちや舞台裏のスタッフはさぞかし驚いたことだろう。
幾ら観劇に慣れていないとしても、恥じらいを気にしないお年だったとしても、どうしてお客さん用のトイレが舞台の上にあると思うのだろうか・・・。舞台の上と客席には境界線があるのだという意識がまったくない行為が、せっかくの夢の舞台をぶち壊した出来事だった。
2005年の星組公演千秋楽では、「ベルばら」の最高潮の牢獄のシーンから最後まで、10列目くらいのどセンターにいた相当具合が悪そうな病気のおばあちゃんが何らかの発作なのか、息が止まりそうな苦しげな奇声を発し続けたのである。芝居に喜んで興奮したというのではない。明らかに、舞台を観ても聞いても何も認識できない老人特有のご病気で、最初から目はほとんどつぶっていたのだ。
生徒たちもそれに気付いて大声を張り上げて芝居してくれたものの、まったくセリフが聞えず、客席も騒然となり、最悪のうちに芝居が終ってしまった。
途中で男性係員がやっと入りづらいどセンターまで入って来て、連れ出そうとしたのだが、元々、孫か娘か介護人らしき隣席の女性と車椅子で来ていたおばあちゃんは、キーキーと暴れてますます奇声を発し、てこでも動かず、とうとう休憩になるまで事態は変わらなかった。周囲の迷惑と言ったら、ない。
近くには池田理代子先生やファンとして有名なオスカル草葉さんもいらして、困惑されていた。わが北海道・札幌に嫌なイメージができたことも道産子としてはとても悲しかった。
思い出に連れてきたかった気持ちは分からなくもない。でも、せっかく観ても話も状況も分からないだろう上に、身動きできない身体の状態で、さらに声も出てしまうのなら、なぜになるべく出入りしやすい場所に変わってもらうなどの常識的な判断ができないのか。
宝塚が好きなのであれば、今は幾らでもテレビやビデオで見せてあげられるではないか。付き添いの方が良席で観たくて、無理に介護しているおばあちゃんを連れてきたと勘違いされても仕方のない事件だった。
その代わり、当然、ご当人たちは芝居だけで帰ったので、ショーではそれを知ったわたるさんや生徒さん皆が、その周囲のわれわれに向かって「さっきは大変だったけど、ショーは楽しんでくださいね」というようなアピールを何度もしてくれて、大変な盛り上がりになったが・・・。(続く)

【2007/06/05 17:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
感涙の春野さんランチショー
ぱんじー
昨日の続きで、ランチした店の前にあったパンジー(今回のDSおさちゃんの役名の愛称だぁ)の寄せ植え。わが家の庭もきれいにせにゃあかんなぁ・・・。

はーーーーーーーーーーーーー。
もう・・・。
なんだか・・・・。

幸せな時間だったよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ。

おさちゃんを見ているだけで、歌を聞くだけでも
十分幸せだけれど、とてもとても良い席で
何度も目が合い、特に「終わりない旅」で・・・

うわーーーーーーーーーーーーーん

今夜はもうこれ以上書けません。
また後日報告いたします。

ちなみに、パーティー仕様の格好での日帰りは結構大変でした。

テーブルでは隣の方が、DS初めてというこのごろおさファンになったえらいおしゃべりな年上のご夫人で、開演まであまりに初歩的な「なぜプレミアチケットが出回るか」などの話をしてきて、閉口。
おい、雰囲気に浸らしてくれよーーーーーーー。
やっぱり「どこからいらしたんですか」が出る。土足で入り込むのやめてくれーーーー。
ホテルにまできて近所の井戸端会議風なのはやめてくれーーーーー。
どうして、せっかくのおさDS、優雅に待てないのか。

君島十和子さん夫婦、大阪DSにもきて、東京ランチショーにまで・・・。いい加減にひんしゅく買っていることに気付かないものか。

・・・と、始まるまでは「どよーーん」だったのですが、
おさちゃんが救ってくれました。


●ミニエッセー297「宝塚全国ツアーに思うこと3」
この時の千秋楽公演は、最近CSでもフルに放送されたが、私は録画したもののまだ観ていない。あの事件が放送に影響しなかったのか、確かめるのが怖いのだ。
千秋楽と言いながら、実際には問題がなかった同日の昼公演、前楽当たりが放送されていたら良いなと思っているのだが・・・。千秋楽に1階センターブロックで観た方なら、何があったかお分かりいただけるだろう。私のタカラヅカ人生でも最悪の出来事だった。
それから、やっとまだ記憶に新しい昨年の話にたどり着いた。2006年の札幌公演は、月組「あかねさす紫の花/レビジューブリアン」だった。3回、麻子さんこと瀬奈じゅんさんの堂々のトップぶりやゆうひちゃんこと同期の大空祐飛さんの成長ぶりなどを観ることができた。
「あかねさす」はいわゆるおさ・あさファンには決して忘れることができない作品である。いろいろと思い出し、涙が出た。そして、何より麻子さんは立派なトップさんになっていた。そのことにも涙が出た。
長年公私共におさちゃんを支えてくれた麻子さん。花組から手放さなければいけなかったのだと頭では分かってはいながら、どこかでつらい思いが消えなかったおさちゃんファンの私だったが、「これで、本当に心から送り出せる。マミさんが好きな麻子ちゃんには月組でのトップ就任がとても幸せなことだったのだ」と祝福できる―そう確信した公演だった。
ただ、今でも過去の2人一緒の映像を観ると胸に迫るものがあるのは否めない。今年放送された2人一緒のCSの番組は内容が楽しくて良かったが、秋にはTCAスペシャルで2人が並んだ時にどんな思いが渦巻くのだろう。
そして、その翌月には花組全ツ「うたかたの恋/エンター・ザ・レビュー」がスタート。梅田、静岡、横浜、市川と追いかけた日々については、昨年末に当ブログで綴ったところである。
実に3バージョンの「うたかた」を全ツで経験したことになる。こうなったら、この先もまた新しい「うたかた」に出合えたらいいなと考えている。
さて、先に述べたように普段観たくてもなかなか観れない人のためにも、ファンを広げるためにも全ツは良いものだとは思うが、全ツの客席の世界というのは、どうしても「宝塚を観ることに慣れている人」や「観劇ということ自体に慣れている人」と「初心者」「慣れていない人」が共存することになり、その溝が深いことで、特に慣れている派はなかなか快適な環境で観れない。その解決策がないものか―今回のシリーズの主題はそれなのである。(続く)



【2007/06/04 22:13】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2)
どきどき・・・明日おささまDSへ
追加
追加で持ってきちゃった野菜料理。野菜って結構おなかにはいっちゃうんだなー(あんたは野菜でなくたって入るって・・・もう一人のわっちより)

昨日は主人と毎年恒例の結婚記念日の食事会として、先日友人Mちゃん親子と行ってすっかり気に入った栗山町のイタリアンレストラン「マーノ・エ・マーノ」でランチコースを食べ、周辺を散歩、見学して参りました。
結婚して丸19年(入籍6/1、結婚式6/12)、もう20年目に入りました。私がヅカ生活ができるのも主人のおかげ。感謝・感謝・感謝です。

そんなん言ってる先から、いよいよ明日は春野寿美礼DS(ランチショー)へ行きます。ははは。
CSのDC座談会や稽古風景を見て、気分を落ち着かせてます。(かえって落ち着かないからっ・・・)
どきどきするよぉ。
報告は夜遅くになります。


●ミニエッセー296「宝塚全国ツアーに思うこと2」
マミさんが退団し、おさちゃんこと春野寿美礼さんのファンになっていた2002年に札幌で観たのは、月組「サラン・愛/ジャズ・マニア」であった。
正直なことを書くと、りかさんこと紫吹淳さんは好きだったのだが、月組なのにどうしてマミさんが出てこないのかという思いがまだちょっとだけ残っていた。ショー「ジャズ・マニア」のせいだろう。この作品はマミさんが年間スケジュールの関係で村(大劇場)だけで主演したもので、生で1回しか観れなかったし、思い入れがあったのだ。
その前年2001年の秋に東京で、りかさんのお披露目となった「大海賊」を観たのだが、その併演のショーも同じ「ジャズ・マニア」で、複雑な気持ちで観た感覚を引きずっていたようだ。
この公演で、このエッセーのシリーズの主題に関わるともいうべき、驚くべきことが起きたが、後々触れよう。
2003年、おさちゃんが主役として初めて回る花組全ツ「琥珀色の雨にぬれて/カクテル」は、北国には来てくれなかったので、千秋楽の前日と千秋楽となった名古屋まで追いかけて行った。
名古屋の会場は音響が悪かったが、おさちゃんがいろいろとあった「琥珀/カクテル」の真の主演となったこと、ショーでのおさちゃんのオールバックが素敵だったこと、ふーちゃんことふづき美世さんが予想以上に頑張っていたこと、私自身体調が思わしくなかったにもかかわらず、なんとか無事に千秋楽まで観れたことなどが重なり、感慨もひとしおだった。
続いて翌年には思いがけず、おさちゃん率いる花組の全ツがわが北海道・札幌で千秋楽を迎えるという幸運が訪れた。当然ながら2日間、4回フルに観た。いつもは村や東京へ遠征し「地方人」の立場の私が地元人として、ファン仲間たちを迎えるという不思議な現象を体験することになった。
黒塗りのおさちゃん、気合いの入ったフィナーレは素晴らしかった。この公演から春野さんが変わったのがはっきり分かった。トップとしての経験を重ね、自信をつけ、客席とのキャッチボールが屈託なくできるようになったのだ。ただ、時代錯誤と言っても過言ではない「ジャワの踊り子」という作品自体には、いろいろと不平不満がある。
そして、私がファンになってからのことを言うと、それまで1年置きだった全ツでの札幌公演は、この2004年花組公演以降本年まで、「毎年開催」へと変わった。しかも、本年も札幌公演が千秋楽である。北海道からの音楽学校受験生、合格者も増えて人気市場地域と判断されたからだろうか。
従って、今年は札幌には来ないと思っていた2005年に、湖月さんがフェルゼンに扮しての星組「ベルサイユのばら」が短縮バージョン(通常「ベルばら」は1本物)となり、ショー「ソウル・オブ・シバ」と共にやってきたことに非常に驚いた。また、全ツの千秋楽であり、原作者の池田理代子先生がいらした。
2日にわたり、3回観たのだが、せっかくの千秋楽の「ベルばら」でも客席で大変なことが起きた。このことは「マナー」に関するエッセーで前にも触れたところだ。(続く)

【2007/06/03 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(4)
源氏製作発表
もってきた
昨日の続き。早速持ってきたヘルシーな野菜料理中心のビッフェメニュー。とにかく変な味付けのない素材生かしたうまさ。飲み物もどれもうまかった。

先月CSで観た「源氏物語あさきゆめみしⅡ」の製作発表記者会見。
草野先生の演出プランに、いろいろと想像をふくらませ、期待で胸がいっぱいです。
新曲もあるとは・・・。頑張れ、おさ源氏!!
初演は、生では1回、1000DAYS劇場で観ましたが、今考えればとてもとても惜しいことに、まだおさちゃんのファンではなかったため、特に「時のすだま」ちゃんばかり見ていたわけでも何に注目していたわけではなく、「なんとなく」観た記憶しかないんですよね。
漫画も読んだことがないので、まったく新たな気持ちで楽しめる予感がしています。


●ミニエッセー295「宝塚全国ツアーに思うこと1」
宝塚の80周年、90周年の記念誌などで全国ツアー(以下、全ツ。旧・地方公演)の記録を見て、とても驚いたことがあった。昔、日本中のかなり小さな町にまでこまめに回っていた時代があったようだ。
現在のそれらの町のことを考えると、そこに公演ができる劇場が本当にあったのだろうかと不思議に思うほどだ。ひょっとして、娯楽として映画が盛んだったころの映画館などで上演したのだろうか。
北海道については、どうして宝塚が当時その町に来たのか、だいたい予測ができる。炭鉱町として非常に栄えていた土地が多い。きっと、当時はたいへん人が多かったのだろう。
歌劇団としては、受験生を増やすためにも、いろいろと開拓したいことと思うが、現在は全ツ公演がある土地というのはある程度定着している。普段、諸事情で大劇場や東京宝塚劇場などに行けなくても、全ツを楽しみにしている人は多いことだろう。
さて、前置きの次に、私自身の全ツ体験を振り返ってみたい。なお、博多座公演は全ツには含んでいない。
初体験は1996年初夏、北海道旭川市での星組「剣と恋と虹と/ジュビレーション!」だった。前年、大劇場で同演目を観たのだが、当時はマリコさんこと麻路さきさんが好きで、マリコさんのTシャツを着て母、伯母、妹らと大勢で勇んで出掛けて行った記憶がある。
当然、本場とは規模が違うが、家族もみんな喜んで観てくれたし、ショーでは北海道民謡メドレーもあり、感激した。
次はその2年後、1998年の札幌で、轟悠さん主演の雪組「風と共に去りぬ」を観た。タータンこと札幌出身の香寿たつきさんがスカーレットという大胆な配役だったが、以前「ヅカノート」から感想を転記したようにとても楽しめた。
それまでピンと来なかった「風と共に去りぬ」という作品の持つ面白さにやっと気付くきっかけとなった。
その時はもうマミさんこと真琴つばささんにぞっこんだった私は、翌年1999年の月組「うたかたの恋/ブラボー・タカラヅカ」が札幌まで来なかったものの、なんとか交通機関と日程的に可能だった秋田公演のチケットをゲットして、母と伯母とを連れて2回観たのだった。
風邪をひいてしまったマミさんと温かかった客席の雰囲気―思い出深い公演だった。
そして、翌年も「うたかた」を観ることに―2000年の宙組「うたかたの恋/GLORIOUS!」を札幌で。
和央ようかさんのプレトップお披露目公演で、湖月わたるさんが2番手を務めていた。(続く)





【2007/06/02 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(4)
オスカルのマスカラ
メニュー
昨日の続きで、ランチしたイタリアンの店の手書きのメニュー&ランチョンマット。アットホーム感、最高でした!!

公式な池田理代子先生の「ベルばら」グッズとして発売されたオスカルとマリーアントワネットをイメージしたそれぞれマスカラ。なんと、ローズ系の香り付き。
ボリュームタイプのアントワネットの方は自分で買いましたが、ロングタイプのオスカルの方は職場の後輩からあることへのお礼にと、プレゼントしていただきました。嬉しいっ
もったいなくてまだ使っていないのですが、おさちゃんDSの時使おうかな・・・って、わっちさん、ほとんどまつげがはえていないんですけれども・・・なんとか頑張りますっ!!


●ミニエッセー294「おしゃれの話12・アクセサリー、小物」
各種アクセサリーやらスカーフ、ストール、マフラー、手袋、腕時計などの小物も知らぬ間に増えてたくさん持っているが、服と同じ考え方で、高価な物は数える程度だ。
アクセサリー類では、耳たぶが薄いことからイヤリングはよほどドレスアップしない限りはしないため、あまり持っていない。また、仕事柄、そして観劇の時のオペラグラス使いにも邪魔なのでブレスレットもあまりしない。
ピアスのおしゃれを楽しんでいる人をうらやましく感じる。何度かピアスのための穴を開けようかと思ったこともあるが、ただの迷信である「運命が変わる」というのが気になって、実行していない。何かしら強運な今の自分の運命に満足しているからだ。
数年前、あまりに使っていないアクセサリーがたまりすぎたので、落札会を開催してわれわれの間で言うところの「良さげな物」を妹たちに引き取ってもらい、残りは処分したが、それでも年間で一度も身に付けない物が多く、もったいない限りだ。
アクセサリーは、間違えればせっかくの服装を殺しかねない。色や大きさやデザインのコーディネートが合っていなかったり、付けないほうが良かったり、物足りなかったり・・・。自分で迷った時はおしゃれが分かる正直な人に意見を聞いてみることだ。私もたまに妹や友人に「これ、おかしくない?」と尋ねることがある。
例えばネックレスは、もし服の胸元に何かしら飾りが付いていたり、切り替えがデザインになっている場合はしないほうが良いことのほうが多い。ドレスアップする時もとにかく何でもかんでもつけてしまうと垢抜けなくなるので、注意している。
観劇の旅の時は、もし服装に合えば、スターのグッズとして売り出されているネックレスや指輪をして出掛ける。結構、普段も使う。
私の場合、現在、宝塚の現役では春野寿美礼さん、OGでは真琴つばささんを一番に応援しているわけだが、「同日にこの2人の公演を観る」あるいは「昼に●組を観て、午後は▲組を観る」「昼は宝塚、夜はOG」ということがある。
その時に、ある一人のスターのグッズを身につけていると、誰かにじっと見られるわけではないのだが、「私はこの人のファンです」と公言していると同じことなので、自分の気持ちとしてちょっと気になるわけだ。でも、一々付け替えてなんかいられないので、「よし、今日は○○さんデーでいこう」などと、自分で勝手にテーマを決める。
このように、おしゃれというものは、自分の気持ちの持ち方や覚悟であったり、自分を元気付けるための気合であったりする。
例えば朝のヘアーセットがうまくいかないまま出掛けると、1日気分が乗らないというようなことがあろう。
人間、何事にも雰囲気や形から入っていくというのは、悪いことではない。だんだんとその外見にそぐうような行動や心のあり方が伴えばいい。さまになっていけばいいのだ。
私も雑誌を作る人になり、まだ何も業界人として身に付いていないころから既に、撮影や取材に行く時はそれらしい格好をするように心掛けていた。
おしゃれシリーズの最後に、私の「おしゃれの大前提キーワード」を記ししたい。それは「清潔」だ。どんな素敵な格好でも、結局本人も服もきれいでなければ始まらない。これも、いつも清く、潔くいたい理想の心の持ち方とリンクしている。





【2007/06/01 00:00】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0)
北海道発・わっちさんの宝塚な日々


北海道の宝塚・ミュージカルフリーク。 現在は特に宝塚OG真琴つばささんが好きです。 北海道日本ハムファイターズも応援しています。 毎日更新しています。

プロフィール

わっちさん

Author:わっちさん
1964年生まれ。北海道在住。
1991年から宝塚ファンに。
大学職員・雑誌記者から
転身し、2010年4月より
美容アーチストとして
サロン経営をスタート。
ネイリスト・メイクアップ
アーチスト、カラーコーディネーター、
ライターです。

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